SONY

第21章 多業種へのチャレンジ

第1話 多業種へのチャレンジ

左より、合弁契約書にサインする井深、
盛田とテクトロニクス社のヴォラム社長

 1958年に「SONY」という、当時にすればハイカラな、かつ、電機メーカーを連想させない新社名を選んだのは、「電気製品にとどまらず、開拓者精神を発揮して新しい分野にも挑戦し、世界に通用する企業グループになっていこう」という井深、盛田たちの思いの表れであった。

 1961年、東京・銀座にソニーのショールーム(ソニービル)を建てるため設立された不動産管理会社のソニー企業も、本業のビル管理を柱に、輸入雑貨の販売を行うソニー・プラザ、高級フレンチ・レストランのマキシム・ド・パリ、旅行業のソニートラベルサービス、保険代理店など、たくさんの枝葉を付けて伸びていく。「われわれは、ハードウエアならぬ、潤いのある人間生活をめざした『ハートウエア』を提供します」と、多種多様の業務内容を共通化するコンセプトを生み出し、開拓者精神を失うことなく多業種へのチャレンジを続けた。70年代中頃からは、海外の優れた製品を輸入する企画を立て、スポーツ・アスレチックとファンシー・ホビー関連製品の輸入・販売を始めた。盛田は積極的な輸出活動、海外での販売会社、生産工場の設立を進める一方で、日本と世界のよりフェアな関係を形成するためにも、外国資本、製品を日本へも積極的に入れることが大切と考えていたのだ。ソニーの事業の「多角化」は、常にグローバルな視点があった。

 事業多角化は、外資との合弁によるものが多かった。まず、本業の電気製品に関連する分野での多角化からスタートした。

 1965年3月、米テクトロニクス社と折半出資による「ソニー・テクトロニクス」が設立された。当時、外国企業との合弁では外国資本の比率は49%が最高であったので、50対50の出資比率は異例である。

 テクトロニクス社は、世界的な電子計測器メーカーで、当時その代表格のオシロスコープでは全世界で80%のシェアを持っていた。新しい発見・開発には、高精度、高信頼性の計測器が欠かせない。江崎玲於奈が、半導体の「トンネル効果」を見つけることができたのも、テクトロニクス社の優れたオシロスコープがあったからだと言われている。

 そのテクトロニクス社は、50年代に、戦後の復興期にあった欧州、日本でのビジネス拡大をめざしていた。自国の産業保護政策の強い日本でビジネスを拡大するには、日本企業との合弁企業を設立するのが最良の道だろうと、ハワード・ヴォラム社長自らが1963年に日本を訪れて、提携先を探していた。

 そこで出会ったのが、当時社長であった井深をはじめとするソニーの経営陣だ。ヴォラム氏は、井深たちに、ほかの会社の人とは違う鋭さを感じた。ヴォラム氏は続いて、当時ニューヨークでソニー・アメリカ社長を務めていた盛田を訪ねた。「すごく精力的で熱心な技術者だし、頭が切れて好奇心も強い。彼の家にはいつも実験器具があり、たえず試すアイデアを持っている」。ヴォラム氏は盛田に惚れ込んでしまった。テクトロニクス社は、ソニーと同じく戦後すぐの 1946年に設立。技術優先の思想、商品の独自性で業界でユニークな地位を築いてきた会社と評され、業種こそ違えど、ソニーとは歴史もカルチャーも似ているようだった。「両社が手を組めば、素晴しい会社に育つだろう」。新会社はソニーの大崎工場(東京・品川)内の一角を借りて、盛田を社長、ヴォラム氏を副社長、ほか10人ほどで細々とスタートを切った。主力商品のオシロスコープの製造・販売は、わずか10年で業界トップになるまで成長した。テクトロニクス社製品の製造・販売を行いながら「技術最優先」を掲げて、独自の技術革新も積極的に進めた。オシロスコープのほか、各種電子計測器類、テレビ放送用機器、光学用機器など、多角化した機種の製造・販売を通じ、産業界の多方面でのニーズに応えていったのである。

第2話 本業を支える

ソニー・エバレディ創立10周年に
行われた記念植樹(右から、当時ソ
ニー・エバレディ会長の戸澤、ソ
ニー社長の大賀、同会長の盛田)

 「計測器」の次は、「電池」の販売・製造にも乗り出した。1972年にソニーがアメリカで行った「日本への輸出をお手伝いします」という広告に、米大手化学メーカーのUCC(ユニオン・カーバイド)社が応じてきたのがきっかけであった。当時世界最大の電池生産量と、世界的な「エバレディ」ブランドの電池部門を傘下に持つUCC社は、日本への本格的進出を考えていたのだ。一方、井深と盛田は「自社生産の電池を持ちたい」という願望をかねてから持っていた。トランジスタラジオ、テープレコーダー、トランジスタテレビなど、ソニーの映像・音響製品群にとって、電池は切っても切れない関係にある。製品に付属の電池は、これまで国内電池メーカーに生産を委託して賄ってきた。電池の用途は自社電気製品だけでない。カメラ、腕時計、電卓などの普及で、小型電池の需要は間違いなく成長していくことが予想された。両社の意向は一致した。

 2年にわたる契約準備の後、1975年2月、UCC社と折半出資で電池の生産・販売を行う「ソニー・エバレディ」が誕生した。社長には盛田が就いた。同年夏より、UCC社から輸入した乾電池などの販売を「ソニー・エバレディ」の商標名で始めた。国内業界の各社は、寡占状態にあった日本の電池業界へ世界最大の電池メーカーの参入に、お手並み拝見といったところだった。既存のソニーの電気店販売ルートのほか、日本各地に設立したソニー・エバレディの営業所を拠点に、化粧品や洗剤などの日用雑貨卸ルート、カメラ問屋ルートなど独自の販路も開拓し、ソニー・エバレディの電池セールスは順調に進んでいった。

 やがて1978年6月には、福島県の郡山工場が完成し、ボタン型酸化銀電池の国産化を実現した。当時、電卓や腕時計、カメラなどに使うボタン電池への国内需要は急増していた。世の動きをいち早く読み取り、UCC社のボタン電池の技術をつぎ込み、量産体制を他社に先駆けて完成したのである。当初、「技術開発はUCC社の責任」という契約で始まったものの、郡山工場では技術開発・改良が積極的に行われ、UCC社の技術者が「ソニーの技術はすごいらしい」と、わざわざ訪れるほどになった。また、生産のコストダウン・ノウハウも米工場に逆輸出されるようになった。

 1986年3月、UCC社との合弁契約解消に伴い、「ソニー・エナジー・テック」と社名も新たに、独立独歩で電池開発を進めることになる。盛田の悲願であった、繰り返し使えて安全性の高い二次電池「リチウムイオン蓄電池」の開発に世界で初めて成功したのは、その4年後のことである(第2部第13章参照)

 このように、計測器にしても電池にしても、最初はその道で実績のある合弁相手の製品を「販売」していくことから始めたのだが、やがて、新会社の内部に開発技術力を蓄積・育成して、独自の「製品づくり」が行われ、企業として大きな成長を見せた。

 本業を支える、といえば、少々毛色は違うが、1968年3月、米CBS社との折半出資で始まったCBS・ソニーレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)もそうだ。「オーディオのハードウエアの発展には不可欠」として始めた日本で最後発のこのレコード会社は、10年後には業界トップのレコード会社に上り詰めていった。新しい音楽メディアのコンパクト・ディスク(CD)の登場の際には、ソフト面からそのビジネスを力強く支えた。また、生みの親のソニーと同様、自らも音楽をベースに、通信販売、出版、キャラクタービジネス、小物雑貨販売など分社化により事業の幅を広げていき、総合エンタテインメント企業として育っていく。

第3話 人を活かした企業船団

 本業を支える事業だけでなく、1970年代後半になると、合弁による多角化は、一見「電機」とは無関係と思える異業種分野にも広がり、世の中に大きなインパクトを与えるようになった。この頃、日本経済は安定した成長下にあり、消費者のニーズが多様化していた。売れる商品のキーワードは、独創性、品質、経済性、利便性——そんな時代を迎えていた。

 1979年8月。分社化によりグループ企業を増やしていくCBS・ソニーグループの一つ、ライフアクセサリー製品を製造販売する「ソニー・クリエイティブプロダクツ」が、「化粧品の販売も始めます」と発表したかと思えば、同日付で、ソニーとアメリカの大手生命保険会社プルデンシャル社との合弁によって、「ソニー・プルデンシャル生命保険」(現ソニー生命保険)が設立された。そして、翌月には、スポーツ用品の輸入・販売にも乗り出した。アメリカのペプシコ社との折半出資による「ソニー・ウィルソン」の設立だ。

 一見無秩序に見えるが、共通しているのは、化粧品、金融、スポーツ用品のいずれも、ソニーの経営陣が成長性があると見込んだ分野だということだ。ソニー・ウィルソンは、米籍コングロマリット社ペプシコ・グループの一つで、アメリカのスポーツ用品のトップメーカーであるウィルソン社のゴルフ、テニス、野球、アメリカンフットボールなどの用品を輸入・販売する目的で出発した。実は、ペプシコ社のケンドール会長と盛田が知己だったことが、この合弁のきっかけとなった。しかしながら、ソニー・ウィルソン設立から6年目にして経営が断念され、持ち株分はペプシコ社に譲渡された。

 当時、出版、小物雑貨、化粧品、保険、レストランまで手がける、ソニーグループ企業の多業種への進出に対して、「そんなにいろいろ手を広げて大丈夫か」「本業の電機産業の不振から目をそらしているのではないか」と、内外から懸念の声も上がっていた。しかし、盛田は「ソニーという名の下に集まった人材と、蓄積した経営ノウハウが生かされ、国際的に見ても有用なら、異業種といってこだわる必要はない。ソニー全体にとってもプラスになる」と自信を持って答え続けた。確かに、多角化の動きで生まれた新会社の立ち上げ、運営に関わった人々は、大企業の中ではなかなか経験できないやりがいを味わい、起業家精神があちらこちらで育っていった。そして、ほとんどの新会社が、狙いどおり、ソニーグループの経営基盤を強化する船団となっていった。

第4話 TI社の日本進出の裏方

ソニーとテキサス・インスツルメンツ
社の契約風景(左から2人目が盛田、そ
の右が井深)

 ソニーの合弁事業の中で、ほかと趣が異なっていたのは、1968年5月の「日本テキサス・インスツルメンツ」の設立である。それは、ソニーグループの人材の活用、経営基盤の強化という目的を、一切持たない合弁開始だった。当時、ソニーを含む日本の電子工業界の発展の足かせとなっていた問題を業界代表として解決すること、そして、純粋な「開国論」に基づいて外国資本の日本進出を援助すること——これが会社設立の目的だった。

 事の起こりは、1964年1月。米テキサス・インスツルメンツ社(TI社)が、日本で半導体集積回路(IC)を生産するため、100%出資の新会社を設立したいと通産省へ認可を申し入れたことだった。

 ICとは、電子回路を高密度に集積配線した超小型・高性能部品で、当時、トランジスタの実用化に次ぐ「電子部品革命」と呼ばれた。米粒大のこの電子部品は、米国で軍事、宇宙用に開発されたものだったが、電卓やテレビ、ラジオなど電子機器の小型化と信頼性の向上をもたらす、電子工業の心臓部としての役割が期待されていた。その研究開発では、日本はアメリカに大きく水を空けられていた。

 当時ICの世界最大のメーカーであり、量産体制の整ったTI社の「日本上陸」の申請は、まだ研究段階にあった日本の電子工業界にとって、大きな脅威だった。当然のことながら、「TI社が日本にやって来て自由に量産されては、われわれは元も子もない」と猛反発が起こった。また通産省としても、自動車工業とともに、日本の再重要戦略産業の一つとして電子工業の保護・育成に努めている以上、その中核となるようなIC生産の主導権を外国メーカーに握らせたくはない。しかし、当時高まる対日資本自由化要求、圧迫の中で、世界の中の日本の立場を考えれば、慎重な対応が必要だった。あくまで自国の重要産業保護か、国際関係も視野に入れた資本自由化か.....。TI社の申請から2年半後の1966年9月、通産省がやっと出した公式回答は、(1)日本企業との折半出資ならばOK (2)TI社は特許を全面公開する (3)当初3年間は生産制限を行う——という条件付きの認可だった。

 しかし、TI社の方針は変わらない。「われわれは、100%出資子会社を日本に設立したいのだ。そうでなければ、日本メーカーに特許の公開はしない」、というのである。TI社は米フェアチャイルド社とともに、ICの重要な特許を持っていた。TI社の特許を公開してもらわないと、日本のIC製品は輸出が不可能になってしまう。日本のIC業界は、足踏み状態となってしまった。一方、TI社にしても、時が経ち、日本のIC生産力が上がれば上がるほど、日本進出のメリットは減っていく。

 双方にらみ合いの状態の中で、「これ以上、TI社の日本進出、そして特許問題を巡る日米間の『IC戦争』を長引かせるのは、日本のエレクトロニクス業界にとっても、TI社にとっても、また、日米関係においても好ましくない」と通産省の意向を受けて、問題の解決に向かって業界代表として行動を起こしたのが、当時社長であった井深と副社長の盛田であった。

 TI社のパット・ハガティ会長と盛田は親しい間柄だった。「取りあえず、便宜上、われわれと一緒に会社を設立しましょう。今は、それしかありません。ソニーで使うICはソニーでつくるので、新会社の運営は実質的にはあなた方にお任せします。そして、3年が経ったら、われわれの日本TIの保有株(50%) はすべてあなた方に譲渡できるよう、通産省に認めてもらう努力をします。ゆくゆくは、名実ともにあなた方の100%の子会社になるのです」。3年後には、日本のIC関係企業の体質も強化されているという期待もあった。

 TI社が通産省に申請してから、足かけ5年。TI社は、通産省の提示した3条件をすべて認めた形で、1968年5月、ソニーとの折半出資の「日本テキサス・インスツルメンツ社」を正式発足させた。社長に井深、会長にはハガティTI社会長が就任した。同時に、日本の各社と米TI社の間の技術提携(特許契約)も成立し、特許問題も一気に解決に向かった。ちょうど、ソニーが米CBS社との合弁でレコード部門進出を発表し、本格的な「資本自由化第1号」と世間に騒がれた矢先のことだった。

 TI社のIC特許問題という「足かせ」を取り除かれた日本の電子工業界は、本格的な「IC時代」へ大きく弾みをつけた。そして、3年後の1971年12 月、ソニーは保有株すべてをTI社に譲渡。日本TI社は、晴れて日本のIC業界初の外国資本100%の会社となった。

第5話 「ハード、ソフト、そして金融機関だ」

盛田が憧れを抱いたシカゴのプルデンシャル社
のビル

 こうした多角化の波の中、合弁で始まった各企業は、それぞれの成長の途をたどっていった。中でも、ソニー・エバレディ、CBS・ソニーレコードは、やがて合弁相手の持ち株分を譲り受けて、名実ともに経営権を取得し、独自の経営体制、ビジネス展開により目ざましい成長をとげていく。盛田には、合弁企業をゆくゆくはソニーグループ企業の「柱」として育てたいという願望があった。

 本業のハードウエア・ビジネスに並び、ソニーの事業の中心部で育てていくべきものとして、「ソフトウエア・ビジネス」が位置付けられたのは、1968年のアメリカのCBS社との合弁による「CBS・ソニーレコード」の設立だった。当時取締役だった大賀に新会社の経営を任せて、ソフトウエア・ビジネスを軌道に乗せる一方で、盛田が常に心にかけていたのが、資金の問題だった。「もともとソニーは、小さい企業集団だ。将来ソフトウエア・ビジネスは絶対伸びるから、力を入れてやっていこう。ただ、企業として伸びるためには、金融機関が絶対必要だ。何も、これは資金調達のためだけでない。企業の信用やバランスを保つ大切な存在となる。金融機関を有した上で、新しい企業集団をつくっていきたい」

 この金融機関への夢は、盛田がある所で見たビルが心に残り、次第にふくらませていたのだ。時はさかのぼり、50年代の後半、トランジスタラジオを携えてアメリカに販売拠点をつくって回っていた時のこと。シカゴで、豪華にそびえ立つ白亜のビルを見上げて、盛田はびっくりした。そして、それがアメリカ最大の生命保険会社プルデンシャル社の建物だということを説明されると、二度びっくりした。「なぜ生命保険会社があんなに大きいビルを建てられるんだ?」。しかし、やがて盛田はそのナゾを解いた。「そうか、あのビルは、彼らの商品であるお金の倉庫のようなモノなのだな。いつかわれわれも銀行か生命保険会社を持って、あんなビルを建てたいものだ」。巨大なビルのイメージとともに、そんな金融機関への思いは、ずっと盛田の心の中に生き続けた。

第6話 米プルデンシャル社との合弁

営業開始後、視察のために来日したプルデンシャル
社のベック会長を囲んで(左から、盛田、ベック会長)

 「ソニーグループに金融機関を持ちたい。そして、いつか立派な自社ビルを建てたい」。夢の実現に向けて盛田が実際に動き出したのは、70年代前半のことだ。生命保険会社へ目を向けた。「どこか、日本に進出を考えているアメリカの生命保険会社はないかな」と思っていると、歓迎すべき客人が現れた。1975 年春のことである。

 まさに、あのシカゴの白亜のビルの持ち主——米最大の保険会社プルデンシャル社のマクノートン会長その人であった。二人は「ドン」「アキオ」と呼び合う旧知の間柄。同時に、プルデンシャル社はADR(米国預託証券)を通じてのソニーの大株主でもあった。彼が盛田を訪れたのは半ば表敬訪問だったが、盛田は、マクノートン氏に「ソニーは日本のマーケットをよく知っているよ。もし、キミが日本で生命保険ビジネスをやりたいなら、お手伝いできるがね」と、本気とも冗談ともつかない調子で持ちかけてみた。その場はそれっきりで別れたのだが、実はマクノートン氏も「アキオは本気なのだろうか。本気だとしたら....」と考えていた。それをふとしたきっかけで、知ることとなった盛田は、チャンスを逃さず、即座に決断し、行動に移した。「一緒にやりましょう」

 盛田の指揮の下、ソニー側で極秘の内に生命保険業界の仕組み、日本のマーケットの有望性などの調査が行われた。プルデンシャル社と合同で設立準備に着手したのは、1976年のことだった。合同プロジェクトチームの課題は二つあった。大蔵省の認可取得と、新しい生命保険会社の経営方針の企画だ。

 西武オールステート(西武セゾングループとアメリカの保険会社オールステートの合弁会社)が1975年に設立されており、異業種の金融機関への進出の前例がつくられていたから、比較的楽なはずだと盛田や準備チームのメンバーは考えた。しかし、実際、ソニーとプルデンシャル社の折半出資による「ソニー・プルデンシャル生命保険」の内認可まで3年(1979年8月設立)、事業免許がもらえる正式認可までには、さらに2年の月日を要した。

 日本生命や第一生命をはじめ、23社からなる日本の生命保険業界は、大蔵省銀行局保険部の厳密な管理下に、企業間格差や競争が起きないよう大手と中小が共存できるように考慮された「護送船団方式」と呼ばれる保護政策が伝統的に敷かれていた。一方、アメリカの保険は進歩的であり、1800余社が激烈な自由競争を展開していた。その中でも最大手、日本生命の3倍の規模(当時)といわれていたプルデンシャル社が、新しい革新的な保険システムを売りにやって来てはかなわない。「日本の生命保険業界に黒船が来る」と、噂を聞きつけた業界から大蔵省へ陳情が続いた。

 同じアメリカの血が流れるといっても、西武オールステートの場合は、西武の流通システムを利用した店頭販売という、日本の生保勧誘の常識に全く抵触しない方法をとっていた。しかし、ソニーとプルデンシャル社合同の生命保険会社がめざしたのは、男性のプロフェッショナルな営業職員による、日本では全く新しいシステムであった。これが、伝統的な女性外務員による日本の生命保険の販売手法とは、真っ向から対立するように捉られたのだ。生保業界の反発、ソニーの熱心な申請の狭間で、大蔵省も頭を痛めた。「あくまで、新しい営業システムは、新しい市場を開拓するためのものです」と、盛田は合同準備チームのメンバーとともに、認可が得られるまで大蔵省へ何度も足を運んだ。

第7話 生保を変えるライフプランナー

 「生命保険業というと、全くわれわれと畑の違うビジネスに思いがちだが、英語では『保険を買う』と言うし、日本でも『保険の新商品』と言うじゃないか。新商品を開発してそれを売るというなら、われわれの商売と基本は一緒だ。われわれらしい商品開発とマーケティングを行おう。また、生命保険は、すぐには利益の出ない非常に息の長い商売だ。しかし、われわれのこれまでの商品開発と同じように、構想・企画・市場調査・開発に時間をかけて、じっくり取り組もう」

 盛田の指針の下で、合同準備チームが練り上げた、大蔵省に認可を求めた新しい生命保険会社の経営方針とは、一体どのようなものだったのだろうか。

 もちろん、基本となる営業職員制度、商品に関するノウハウはプルデンシャル側から移植されたが、日本の土壌、ソニーが考えた新しいアイデアを加えてアレンジしていった。「顧客の愛ある幸福な人生設計に役立つニードセールス(顧客の必要性に応じた保険設計)が真の生保ビジネス」とするプルデンシャル社の創業以来のフィロソフィー、ノウハウを受け継ぎながら、日本の生命保険業界の常道とは異なった独自のシステムをつくっていった。

 金融・財務の高度な知識を持つプロフェッショナルな営業職員を育て、終身保険をベースにお客さまの必要性に応じて『質』と『効率』の高い保険の販売をさせようと考えたのである。いわば、オーダーメイドの保険だ。これからの高齢化社会も視野に入れた新しい時代の営業職員は、お客さまのニーズを分析し、その生涯(ライフ)を設計(プラン)するぐらいの責任と能力を有する、高度なプロフェッショナルの専門職であるべきだということで「ライフプランナー」と名付けられた。「『ライフプランナー』には、一国一城の主になったつもりで自由にやってもらおう。会社に共有するべきなのは目的とフィロソフィーだけだ。がんじがらめの規則づくりはやめよう。そして、実力次第で給料がどんどん上がる実績比例制の給与体系にしよう。われわれが行うべき管理は、良い人材を見い出し、成功者を輩出させる環境づくりをすることだけだ」。こうした理念の下、ライフプランナー第1期生27人が採用された。いずれも、生命保険以外の分野で、セールスに実績のあった人材のスカウト採用である。プロフェッショナルセールスマン、フルコミッション制、スカウト採用の3点がライフプランナーの条件だ。皆、新しい生命保険会社の起業の夢、熱意にひかれて新たな人生を決意してやって来た。

 構想から5年の1981年2月。ついに大蔵省正式認可が下りた時、盛田は、準備を行ってきたメンバー全員と喜びを分かちあった。「私は今までいろいろな商売を手がけたけれど、5年もかけて、こんな小さい会社をつくったのは、初めてだよ。でも生命保険は非常に息の長い事業だ。5年、10年先を見て、ぜひとも伸ばしていきたい。私の夢がとうとう実現した」。井深も「ソニーも子孫に美田が残せるなー」と喜んだ。

第8話 黒字になった「ソニー生命」

ソニー生命保険の創立10周年記念式典

「今日から生命保険が変わる。ライフプランナーが変える」。こんな新聞広告を掲げ、1981年4月1日「ソニー・プルデンシャル生命保険」は営業を開始した。資本金は30億円ながら、盛田会長、平井龍明社長(元大蔵省関東財務局長)以下53人、支社が首都圏に4つの小さな会社での出発だ。

 ソニー・プルデンシャル生命の成長は、ライフプランナーの活躍によって築かれた。業界他社の保険販売員と比べて、その生産性は3倍以上だと自負できる活躍ぶりだ。優秀なライフプランナーは、「貢献度=報酬」の法則に貫かれた報酬体系の中で、高収入を得、それから必要経費を自己で負担するという事業家的精神でやりがいを増していった。まるで一企業の社長のように、自分の給料で秘書を雇うことも認められる。独立起業家が次々と生まれていくようだった。

 経営面でも転機が訪れた。1987年9月、ソニー・プルデンシャル生命保険は「ソニー・プルコ生命保険」と社名を変更した。100%出資の日本子会社をつくりたかったプルデンシャル社が、株式を全額引き取りたいと申し入れてきたのに対し、盛田はプルデンシャル社や大蔵省との粘り強い折衝の結果、ついにソニーとその子会社および創業以来の取引銀行に、総株式の70%を譲り受けることで話をまとめてしまったのだ。プルデンシャル社は、ソニー・プルコ生命については子会社のプルコに30%の株式を残したものの、経営にはノータッチという約束をソニーと交わした。そして、彼らは彼らで別の100%資本の日本法人を設立した。つまり、ソニー・プルコ生命は、実質的にはソニー100%子会社の生命保険会社となったことになる。大蔵省は合弁だからこそ金融機関とは畑違いの製造会社の生命保険業進出を許したのである。これが前例になって異業種資本が金融機関設立になだれ込むようになっては困ると、既存の金融機関の反発は激しかった。しかし、ともあれ、30年来の夢である「ソニーの金融機関」に一歩近づいた。盛田は、新会社発足のセレモニーでその喜びを表しながら、「ソニー・プルコの社名から、プルコの3文字が外れる日が必ず来ます」と語った。  そして、その言葉は現実になった。元ソニー常務の大蔵公雄(おおくら きみお)を会長、伊庭保(いば たもつ)を社長に置いた新体制の下、創立10周年を迎えた1989年、保険保有契約高は1兆円を突破、ソニー・プルコ生命はさらに「ソニーらしく」勢いを増して成長を続けていた。そして、保険保有契約高が2兆円、総資産が900億円を超えた1991年4月、社名はついに「ソニー生命保険」になった。1993年3月期には、営業開始から13年目にして念願の単年度黒字化が達成された。ソニー生命の勢いは目を引く。何よりも、「ニードセールス」というコンサルティング型の営業は、保険本来の考え方からすれば極めてオーソドックスな手法であるはずだ。それを本当に実践してきた上での業績の伸びである。