ソニーの製品で人気があったのは、何もトランジスタラジオに限らない。ソニーの本領とも言える“音”の分野でも人気商品はいろいろある。“日本の生んだ世界の銘機”としてその名も高い、国産初のコンデンサーマイク「C-37A型」もそのひとつである。
ステレオの録音機用のマイクロホンを手がけてからというもの、中津留(なかつる)は密かに「いつかは、自分の手でコンデンサーマイクを作ってやろう」と思っていた。というのも、当時コンデンサーマイクも外国製品一辺倒で、特に音響を扱う人たちは、外国のマイクが一番良いと言って、日本製のマイクには見向きもしなかった。それには、それなりのわけがあった。日本は高温多湿の国であり、そんな所でコンデンサーマイクを作っても、ろくなものはできない。年中雑音を出して、使いものにはならない、というのが通説だったのだ。
「そんなことはない、国産でもきっといいものができるはずだ。誰もやらないのなら、それこそソニーの頑張りどころだ」。中津留は苦労を承知の上で、コンデンサーマイクの開発に取り組む決心をした。
直接のきっかけは、NHK技術研究所の中島平太郎(なかじま へいたろう 後にソニー常務)が与えてくれた。中島もこの頃、NHKでコンデンサーマイクの試作に取り組んでいた。これは、マイクの振動板がセルロイドでできており、日本最初のコンデンサーマイクであったが、残念なことに完成までには至らなかった。中津留は中島から学び、ドイツのマイクを参考にして仕事を始めた。アメリカメーカーのマイクは派手だが、ドイツのメーカーのものはオーソドックスなものが多く、理論的に築き上げた製品であるという感じであった。
最初に、一番苦労したのが振動板である。いろいろな材質のものを探してきてやってみたものの、どれもうまくいかない。そんな折、米国からポリエステルフィルムが日本へ入ってきた。「これは使えそうだ」と思ったものの、そのフィルムに極板をどのように付けたらよいか見当がつかない。そんな時、知恵を貸してくれたのは社長の井深だ。金(きん)を、真空中で蒸気のようなものにしてパッと飛ばしてくっ付けるというというもので、実験を繰り返しているうちに、これならいけるという感触を得た。問題が一つ解決し、振動板(膜)ができた。
次は、量産の問題である。コンデンサーマイクのプリアンプ用真空管にはノイズの少ないものが使われ、ドイツ製のマイクはAC701という3極管を使っている。これが高価で、1本7千円もする。こんなものを使えば目が飛び出すような価格のマイクになってしまう。これでは、普通の真空管の中から探すほかない。そこで選ばれたのが6AU6という5極管で、これを3極管として使うためにグリッド(電子の流れを制御する電極)をプレート(陽極)とつないで試してみたところ、うまく動作することが分かった。これで、何とか「C-37A」の原型ができた。
それでもまだ、最後の苦労が残っていた。構造的にデザインをどうするかだ。プレスして型押しするということは、考えもつかない時代である。外観の構造も、手作りに近い。前面の網もハンダ付けで、二つ合わせにして仕上げ、何とか形になった。でき上がりを井深に見せると、満足した様子で「とにかく、ソニーの宣伝をしなくちゃいかん。真ん中に、横一文字にSONYと入れよう」という意見だ。このマイクは、NHKでも民放でもその後大いに活躍し、しかもテレビ放送の開始もあって、井深の言葉どおりに宣伝に一役買ったのだ。
オーディオのテープレコーダーが完成して、これと同じ方式でやれば、画(え)が記録・再生できるであろうということは、電気屋であれば誰でも考えられることであった。ソニーは、1953年に高周波記録の極限としてテレビジョン信号の磁気記録装置に着目し、検討してはいたが、ちょうど半導体技術の開発に追われている時期でもあり、残念ながら研究陣を投入する余裕すらなかったというのが実情であった。
一方、世界に目を転じると、特に一生懸命やっていたのが、イギリスではBBC、アメリカではRCA、アンペックスなどだ。ところが、これらの会社で実物ができ上がってみると、それは大変な機械であることが分かった。というのも、VTR(ビデオテープレコーダー)はテープレコーダーと違って、テープを毎秒数メートルと非常に速く走行させなくてはならない。そして、テープを巻き取っていくと、どんどんリールの直径が大きくなり、これを止めようにも、慣性があるのでうまく止まらない。さらに、スタートする時の速度が一定になるまでがまた大変という、厄介な代物であった。井深もこの頃、米国でVTRを見ており、その時の感想は、「毎分2万回転で、しかも4ヘッドでテープをこするような機械では、実用にならないよ」というものだった。
最初の実用機ができたというニュースが、1957年にアンペックスからもたらされた。これには井深たちもびっくりした。とても実用にはなるまいと思っていたものが、現実のものとしてこの世に現れ、しかも翌1958年5月には、NHKをはじめ民放各社がこぞって、導入し始めたのだ。
アンペックスでできたのなら、われわれにもできないはずはない。「それ、やれ!」。井深の号令がかかった。「それ、やれ」と言うのは簡単だが、言われたほうは大変だ。VTRを任されることになった主任研究員の木原信敏は、井深から「できるか?」と聞かれて、正直に「分かりません」と答えたところ、「分からないんじゃあ困るよ」と軽くはねつけられてしまった。
VTRの出現は、ソニーならずとも電子機器メーカー各社の関心事であり、また放送業界からも早期国産化の必要性が強く要望されていた。そのため、東芝、日本電気、松下電器、ソニーの4社とNHKが協力し、NHK技術研究所内にVTR調査会を設け、国産化を目指して、アンペックス製VTRの共同研究が始まった。研究は始まったが、磁気録音機の高周波限界として常識的に考えられていた値の数百倍以上の周波数と、1桁も2桁も高い機械加工精度を取り扱うには、経験も乏しく、数多くの技術的困難が待ちかまえていた。
一方井深は、国内各社のトップマネジャーたちの研修視察団の一員としてアメリカに旅立つことになり、出発前の8月、社内のVTR開発会議の席でこう言っている。
「アンペックスの先駆者としての努力と、その技術に敬意を表することはむろんであるが、われわれがアンペックスのVTRを試作することは、単に模倣することではなく、われわれの技術を少なくてもアンペックスの技術水準まで引き上げるための手段である。そのためにはVTRに付随するあらゆる技術を学び、これからに役立てていかなければならない。このことから、すべての電気回路、機械工作、材料の検討が、社内の技術を結集して行われなくてはならない」
つまり、当面はアンペックスの技術に追いつくことが課題であるが、いずれはこれを追い越し、ソニー独自の研究を進めて、もっと小型軽量化していかなくてはならないと井深は考えていたのだ。VTRが実用化されたことは、すごい。しかし、アンペックスの機械は、2インチ幅のテープを使い、一抱えもあるようなドラムが入っている大がかりな装置だ。その上、価格も3千万円と、当時としては破格の値段だったのである。
「帰って来るまでに、とにかく画を出しておけよ」。そう言い残して、井深は機上の人となった。
木原が、初めてアンペックス製のVTRを見た時、「これはもう膨大なものだ」という気がした。アンペックスの完成した画と、真空管をたくさん使った装置を見ただけで圧倒されるようであった。
現物を見たのは、すでに設計に取りかかった後であった。それまで木原たちの手元にあった資料は、回路図の写真複写のみ。この貴重な写真を手がかりにして、解読しようと木原たちは苦労していた。しかも、回路図自体が鮮明とは言えないので、そう簡単にはいかない。何とか正確な資料を入手しなくてはと思いつつも、時間にせかされて木原たちは設計に取りかかっていた。
動作と原理だけは、分かっていた。それに、頼りないながらも回路図はある。この回路図、肝心な部分はアセンブリー(組立部品)になっていて、カタログ番号しか書いてない。それに、不明瞭な部分も多く、回路図どおりにいかない所もある。たとえば、出力回路など同じような部分が各所にあるのに、こちらの回路ではこういうことをやっていて、他の所では違っているというように、各ブロックで全部というほど違うやり方をしている。最初は理由が分からず困惑したが、そのうちこれは設計者が異っていて、それぞれの設計者の好みであろうということに落ち着いた。これも、先に木原たちがテープレコーダーを手がけていなければ、とても解読できなかったであろう。
機械のほうでは、ヘッド、モーターが問題であった。モーターは、外形と回転数だけは分かっていた。しかし、それ以外は全く分からず、不安に思って手を付けずに「そのうち、何か詳しい資料でも出てくるのじゃないか」と待っていたが、どうにもならない。結局、理詰めで計算をしていって、丸1ヵ月がかりで何とか設計し終えた。ヘッドは、前述のVTR調査会で分解したものを見せてもらったが、ただ見ただけであった。録音機を作っていた経験から、ヘッドの製造上のポイントをつかんでおり、ある程度独自の設計で進めていたのだ。だからと言って問題がないわけではなかった。まず、ヘッドの材料加工がうまくできない。次は、何度設計をし直しても工作がうまくいかない。その他にも、ボールベアリング、サーボ回路など、手数のかかる問題がたくさんあった。やっとのことで画が出たのが、1958年10月。井深が帰国する11月1日に、どうにか間に合った。それにしても、予想外に早く、たった2ヵ月で仕上げたことになる。直接開発に携わった部門をはじめ、全社一丸の協力体制でなされた成果であった。
こうして、国産初の名乗りを上げたソニー製のVTRであったが、テレビの信号を記録・再生できるようになったことを除けば、その再生画像の質は、ノイズや安定度など、決して満足のいくようなものではなかった。
NHKでは、技術研究所を中心にVTRの試作に取り組んでいた。VTRを使えば番組の国際交流が図りやすくなることもひとつの効能ではあるし、米国でアンペックスのVTRが標準方式となり、続いてヨーロッパでも標準方式となったことから、当然NHKもアンペックス方式でやったほうが、何かと便利であることから始められたものであった。 こうした立場上、NHKは試作完成後もアンペックス方式で国産化を進めていったが、ソニーは人のやらないことに挑戦する会社でもあり、アンペックス方式の試作完成後からは独自の道を歩み始めていた。この頃、ソニーとNHK以外でも5〜6社が次々とVTRの開発を始めていた。NHKなど何社かはアンペックス方式を踏襲し、ソニーをはじめ数社が別の方式で開発しようとしていた。 ところで、木原たちが国産初のVTR試作に取りかかった頃、週刊誌に「ソニーはモルモットだ」という記事が出た。評論家の大宅壮一氏(故人)が、週刊誌の記事の「日本の企業」に東芝を取り上げ執筆した中で、引き合いに出されたもので、「トランジスタでは、ソニーがトップメーカーであったが、現在ではここでも東芝がトップに立ち、生産高はソニーの2倍半近くに達している。つまり、儲かると分かれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強みがあるわけで、何のことはない、ソニーは、東芝のためにモルモット(医学などの実験用動物として使われる)的役割を果たしたことになる」と書いたのだ。 しかし、こういう言われ方は井深たちにとっては、残念なことであった。確かに『モルモット』かもしれないが、日進月歩の電子工業の世界にあって新しい製品を産み出していけるのは、ソニー自身がすぐれた技術力と社長以下全社一丸となったチームワーク、そして実行力を持っていたからだ。それを抜きにして、大会社と比較されたのではかなわない。 この発言に、初めはひどく憤慨した。しかし後年、井深は『ソニー・モルモット論』に対し、「私どもの電子工業では常に新しいことを、どのように製品に結び付けていくかということが、一つの大きな仕事であり、常に変化していくものを追いかけていくというのは、当たり前である。決まった仕事を、決まったようにやるということは、時代遅れと考えなくてはならない。ゼロから出発して、産業と成りうるものが、いくらでも転がっているのだ。これはつまり商品化に対するモルモット精神を上手に生かしていけば、いくらでも新しい仕事ができてくるということだ。トランジスタについても、アメリカをはじめとしてヨーロッパ各国が、消費者用のラジオなどに見向きもしなかった時に、ソニーを先頭に、たくさんの日本の製造業者がこのラジオの製造に乗り出した。これが今日、日本のメーカーのラジオが世界の市場で圧倒的な強さを示すようになった一番大きな原因である。これが即ち、消費者に対して種々の商品をこしらえるモルモット精神の勝利である」とし、さらに「トランジスタの使い道は、まだまだ私たちの生活の周りにたくさん残っているのではないか。それを一つひとつ開拓して、商品にしていくのがモルモット精神だとすると、モルモット精神もまた良きかなと言わざるを得ないのではないか」と、語っている。たとえ、モルモットと言われようとも、それによって日本の電子産業が発展し、ひいては消費者の生活が便利になれば、それでよいのではないかというのが、井深をはじめ経営陣の考えであった。
『ソニー・モルモット論』というものが出て、人の口に上がるというのは、それだけソニーが世間の注目を浴びている証拠である。この時期、ソニーは急成長を遂げ、今や中小企業の域を脱して大企業の仲間入りを果たそうとしていたのだ。
1955年8月8日、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)の株式が店頭取引銘柄に指定された。当日の『日本経済新聞』には、「今日から店頭取引(136円)を始めた東京通信工業は、1、2月と小幅だが引き締まって登場している。明春からトランジスタ使用の小型ラジオ5万個の生産(現在5千個)を行う方針を持っており、売り上げも月5千万円から1億5千万円に急増する計画だという……」とある。
そして、1958年の12月、いよいよソニーの株式は、東京株式第一部に上場銘柄として承認されることになった。これまでの業績、今後の将来性とも申し分ないとの評価を得たことになる。
こうしてソニーが急激に成長を遂げたのは、井深の先見性とそれを助ける盛田の行動力、仕事を“道楽”にまでしてしまう技術陣、社長を信頼してついていった社員たちの会社を挙げてのチームワークの良さ、といったものが大きく貢献していたが、忘れてはならないのが、創立当初から、陰になり日向になって東通工をわが子のように可愛がってくれた経営陣である。
その中の一人で、取締役会長の万代順四郎(ばんだい じゅんしろう)が亡くなった。公職追放の身であったとはいえ、それまでは財界の最長老であった人物だ。その万代が1947年には、雨が降れば部屋の中で傘をささなくては会議も開けないような東通工の相談役を、また1953年には「自分はこれまで第三者の地位において育成に務めてきたが、今度は一つ、お前たちの仲間に入ろう」と会長まで引き受けてくれたのであった。この時、社長をしていた前田多門(まえだ たもん)は「今まで大名だったのが、御家人くらいに転落したわけですが、それにもかかわらずお引き受けくださってありがたい」と冗談まじりに礼を述べたものだ。
子供のいなかった万代にとって、ソニーは可愛い息子のひとりであった。また、万代は苦学の人であっただけに、どうにかして学生が苦労なしに勉強できるようにと、心から願っていた。そんな万代は、持っていたソニーの株券をすべて母校・青山学院へ寄贈したのである。後進の育成は、万代のもうひとりの息子に対する愛情の表れであったようだ。
「営利会社であるから、あくまで利益を上げなければならないが、いつでも世の中の役に立つことを考えていてほしい」。万代が常に口にしていた言葉である。井深はこの万代の遺志を受け、改めてこれからの自分たちの進むべき方向について決意した。
万代が亡くなった1959年、ソニーでは、従業員家族で小学校へ入学する子供に対してランドセルを贈ることと、全国の小・中学校を対象に「ソニー理科教育振興資金制度」を設けた。ランドセルの贈呈については、戦後13年が経ち、日本の復興も目に見えて進んできたとはいえ、庶民の生活はそれほど楽とはいえず、小学校に上がる子供に余裕を持って新しいランドセルを買ってやれる家は少ない。ソニーに勤める社員とて同じだ。そこで少しでも社員の負担を軽くし、祝ってやろうという井深の発案でなされたものだ。
また「理科教育振興資金」は、「経営が軌道に乗ったら、広く人々のため、社会のために科学技術の普及を行いたい」という井深の夢から出発し、「天然資源が少なく、人口が多いわが国の将来はすべての日本人が科学技術に関心を持ち、これを盛り立てていくことにかかる。次代を担うべき少年少女が、たとえ大きくなって技術者とならないまでも、科学技術に深い関心と興味を持つようになることを切望して……」設けられたものだ。
このどちらも、その根底には、万代の人間に対する深い愛情と相通じるものがあり、いかに井深たちに与えた万代の影響が大きかったかがうかがわれる。