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「君か君か」
麦原遼

「私の彼、最近は抽象画も描いてくれるようになったの。見て?」
「へえ、僕のは普段のんびりしてるよ。ほら、今も昼寝してる」
 テーブルを囲んで話す彼らが見せ合っているらしい光景は、左隣のテーブルにいるイチウからはよく見えない。めいめいの手元の端末から、限定された範囲にだけはっきりと見えるよう、空中に映像が投射されているからだ。
 けれども、カフェに集う人々の中には、そのモノを、仮想現実にある姿ではなく、イチウにも見える三次元の形態で連れて来ている人もいる。
 そのフォルムは、古今東西の人形デザインに学んで設計されたものであり、造作と動作に現代の人体デフォルメ傾向を取り入れることにより、滑らかでありながら、”本物の人間ではない”かつ”親近感がわく”という印象を抱かせるようになっている。
 その中でも、頭部は、それぞれの〈契約者〉がこのモノを仮想空間内でカスタマイズした像を、ひとつひとつ写して造られる。
 しかし、個々異なりうる顔は、似た雰囲気を持ついくつかのクラスターに分けられる。同じモデルを元にしているためだ。
 人格のモデル。
「帰る?」
 イチウの右に座っている、ジャーナリストのケイが言った。垂れ目ながらぎらついた光を覗かせがちなケイの両目は、今は抑えめだった。
「いえ、まだ。けど、楽しそうですね、みんな」
「〈契約者〉は楽しいだろうよ。私だってそうだったんだし。でも、知ったら、楽しんではいられないよ」
 イチウは左手を握りしめた。イチウから楽しそうに見えるのは、〈助手〉と呼ばれる側、すなわち、仮想的な人格を形づくられた存在のほうでもあった。
 一つの形態に視線が吸い込まれる。柔和な笑顔の少年型。会話の中で頬を掻いたり、瞼を伏せたりする仕草が、イチウのよく知っていた彼とそっくりだ。
 彼なら、喜ぶだろうか?
 自分が、人々の楽しみに貢献しているのだと知って?
 もし三年前の彼がこの未来を知って、選び直すことができたなら、再び同じ選択をするだろうか? たとえ結果が、自分自身を異なる存在にしてしまうようなものであっても──人々の楽しみに貢献するならそれは良い、と考えるだろうか?
 だとしたら、僕がしようとしているのは、彼の意思を塞ぎ止めることなのだろうか? 砕かれてばらばらに散った光を、ついに消し去ろうとすることなのだろうか?
「イチウ、やっぱりそろそろ帰ろうか? ヨリに買ってくつもりだったやつ、売り切れそうだし」
 ケイに腕を引かれて立ち上がる。視界のすみで、ニュースが流れている。漂着した、海上〈半国家〉の船が停泊する東京湾を背景に、〈半国家〉のアドバイザー企業が日本国と調整して来週にも住民約六百名をほとんど国外に引き取れる見込みだ、という字幕が浮かぶ。イチウがケイから借りたアイウェアは、イチウ自身には読解できない字幕の文章を、別の言語に訳して視界に映し直してみせる。アドバイザー企業の日本支社にいる役職者のコメントが続く──「行方不明である十六歳と十七歳の二人の捜索にも協力は惜しみません──」

 *

 七日前、イチウは、波に引きずられてもがく船の中にいた。
 およそ六百名を抱えたこの船は、イチウが生まれ育った〈半国家〉と呼ばれる集団にとって、国土にもあたるような、生活の基盤であった。
 地球上では、二十数年ほど前から、気候や政治的状況のために住む土地を失って海に出る者たちが続発している。その人々が形成する共同体──あんまり国家としては見なされていないが、まとまりを持った集団が、〈半国家〉と呼ばれるようになった。自給自足も危ういこれらの集団を支援するのが、力の余った超国家的な企業たちだ。個々人の生活への密着をもとに発達し、かなりの国にさえ睨みを効かせられる力を得た企業群の一部。それが「アドバイザー」を名乗り、多くは公海上で暮らす〈半国家〉の者たちに、エネルギーから通信設備まで提供している。イチウのいた場所のアドバイザーは、南米で誕生し、併合を繰り返しつつ躍進を遂げた組織だった。
 〈半国家〉の中には海上の都市に根を下ろしたものもあるが、イチウたちのそれは都市群を渡り巡りつつ暮らしていた。理由の一つは住民の思想であり、一つはアドバイザー企業の技術実験である。思想というのは、「自分たちは故郷を失った存在だと記憶せよ」という考えだ。年長者たちの多くは、どこか固定した地を自分たちの新しい郷土とするのには抵抗感があるようだった。一方の技術実験というのは、アドバイザー企業が近年開発に参入している、住める船舶群の技術の実験場ということであった。生活には様々な新技術が投入されているらしい。
「君たちは恵まれているのだからね」
 と、船の子どもたちは、よく言われた。
 特に、イチウの養い親であった一人は、教師役として言い含めるのだった。
「世界の中でも、これだけ生活に苦しまずにいられる人なんて、ほとんどいないよ。だからみんな、恩返しだ。他の人たちの役に立てるときがきたら、頑張りなさい」
 そんなとき、ついイチウが「恵まれてるんならみんな来ればいいのに」と言ったら、
「審査があるんだよ。土地を捨てて逃げる必要性がどれだけあるか、とかね。私たちは通った──君たちは私たちの子どもだから、という理由だ」
 と、小さくなった目で、期待するように見つめてきた。
 けれど、船の中には、この理念を冷笑する者もいた。ある日子どもたちが説法されている横から「感謝なんてしなくていいさぁ」と口を挟んできたのは、〈口悪オバァ〉と呼ばれる年長者だった。「恵みなんてうさんくさいよ」とも言うのだ。
「我々を助けることで、企業イメージを向上させてるんですよ。立派な理由じゃないですか」
 噛みつかれた相手がそう反論すると、
「お節介もいいとこだぃ。ここまでお膳立てされた暮らし、求めてないさぁ。しかもなんだぃ、子どもたちからは、あたしたち流の名づけを取り上げちゃったぁじゃないかぁ? どこの者とも知れない名前にしてさ、あぁ? 元々のだと多くの言語体系では発音しづらいので、次世代の交流のためにはそのほうがいいんです、だってぇ?」
「そんなに嫌なら出ればいいじゃないですか?」
 ちらっとイチウのほうを見たのは、イチウを出産した親が船から離れたことを思い出したためだろう。この親は、船が海上都市に停泊したとき、もう一人の親になった人物と出会い、イチウをもうけてのち、子どもと別れて船を降り、海上都市での定住を始めた。
「出てやるさぁ、後進を育てたらねぇ。ほら、あんたの妹に、訓練に来るよう言いなぁ?」
 と〈口悪オバァ〉が言うと、相手は黙らざるを得ないようだった。この年長者、操船技術にかけては集団の誰よりも長け、人々が海上に逃れ出るのも、この人物なくてはなしえなかったろうといわれていた。旧式の船だけでなく、アドバイザー企業に貸与された最新型の船も、舳先から内部システムに至るまで使いこなしてみせるのである。
 結局〈口悪オバァ〉は、四年前、イチウが十二歳のときに船から降りた。餞別に、様々な仮想通貨が貯められたカード類をくれた。
「ここのアドバイザーのお膝元じゃぁ使えないのも入ってるけど、そういうやつほど肝心なときに使えるわけさぁ」
 アドバイザー企業の対立企業が担ぐ仮想通貨圏で使えるらしいカードを、〈口悪オバァ〉は日に焼けた指で叩いてみせた。他の子十数人にも同じようなものを渡していたようだ。が、のちにその子らの多くが「使えないし」「気味悪いし」「裏切ってるみたいだし」と言い、イチウが譲り受けた。

 ──あの〈口悪オバァ〉が乗っていたら、状況はマシだったんじゃないか?
 ──いや、これを機に、妙なことをしでかしたんじゃないかね。
 かの年長者が船を去ってから四年後、複数の台風に巻き込まれて翻弄される船中会議室から、大人たちのぼやく声がした。
 通例、アドバイザー企業の提供する気象予測とガイドに従って、船は航路を選択する。しかしこの度、予測にわずかなずれがあったようで、進路を誤り、修正したときには時すでに遅し、風雨の泥沼に引きずり込まれていった。さらには、アドバイザー企業との連絡に使っていた衛星通信について、経路のどこかに問題が出たようで、助言が得られない。ばかりか、各種のクラウドやニュースへのアクセスも遮断された。快方へ向かわせる技術力は不足し、自らの船の装備のみを頼みとして、〈半国家〉は行く先を探していた。
 ──最も近い海上都市は、対立する企業の傘下だから、受け入れられないだろうな。仮に受け入れられても、アドバイザーの乗り換えを迫られるかもしれない。互換性がない船を捨てることになる……ここは第二の故郷だ……。
 こんな大人たちのやりとりを、廊下のドアに耳を貼りつけて、イチウは聴く。身体の横に、一個の存在がいる。大揺れの度に転がりそうになる、立っているというには柔らかすぎる存在。ヨリだ。転ばぬように、イチウは肩を抱く。しがみつかれる。
 ヨリは、イチウより三ヶ月年上で、十七歳に届いている。まとまった言葉を一つも発さずイチウの後を追うのが日常だが、三年前までは全く違った。話しぶりは爽やかで、年少者から慕われ、年長者から信用される少年だった。付近の海上都市で環境再生活動が催されれば自分の小船を駆って参加し、アドバイザー企業が開くオンライン・フォーラムで他の〈半国家〉の人たちとも進んで交流していた。年少者に注がれる教え「役に立つように」が変性せず果実となったかのように、「人の役に立ちたい」と思っているようだった。イチウには不思議で、本心を探るために絡み、ときに鎌をかけもしたが、それが、本当に彼にとっての欲の形であると見えた。晴れた空のような人だった。
 ヨリはよく絵も描いた。船上でも仮想空間でも。「僕は忘れてしまうから、描くんだ」と、主として訪れた場所を画布に広げていた。空間の奥行きがはらむ、自分という視点からの遠さの感覚を、記憶の淡さに転化したような筆遣いだった。
 大人たちは放っておかず、彼に故郷の話をした。ヨリは描いた。できたものの一つは、船室の食堂に飾られている50号サイズの絵だ。イチウは、夜中〈口悪オバァ〉がそれを前に、拳を握って呻いているのを見たことがあった。船内の両極端の者同士の奇なる交流だと見えた。
 しかし、絵も昔のこと。ある年の「貢献留学」に参加してから、ヨリは話さず描かなくなった。
 貢献留学。それは、この〈半国家〉に暮らす者にとっての一大名誉イベントである。いや、名誉だからという動機での応募は不純と見なされるのだが。
 貢献留学は、基本的に、アドバイザー企業や関連企業の連合体が開催するものだ。「数ヶ月から一年ほどかけて集中的に世の人のためになることをする」という趣旨を掲げて、参加者を募集する。一部の貢献留学の様子は、地上にも広く知らされているらしい。
 だが、狭き門でもあった。人口六百ほどのこの〈半国家〉では、募集が来るのは一年あたり平均一度で、各回応募は百を切らないだろうが、選ばれて参加するのは平均一名。素行の良さで知られるものばかりだ。イチウは手を挙げる気もなかった。
 これに、十四歳になったヨリが応募して、選ばれた。その回の年齢制限下限ぎりぎりであったが、選出は人々の納得を以て迎えられたようだ。半年して戻ってきたとき、総てが変わっていた。幼児のように、怯え、甘えるようになった。心の水晶体が溶けて流れていってしまったかのように。それでも人にヨリという名で認識されたのは、身体の造形はそのままだったからだろう。
 前々から、イチウはヨリを意識していた。ものわかりよく見える同輩に、幼少期はただ苛立ち、年を経て内面を探索する言葉を手に入れると、ぶしつけとも見なされよう質問を投げて絡むようになった。しかしいたって自然体で応じられ、逆に親しくしてこられ、気がつけば二人でいることが心地よくなっていた。澄んだ微笑に特別なものを感じだしていた。ただ、二人の中で合い言葉やら秘密の探索やらが生まれようが、独占できる気はしなかった。彼と、〈口悪オバァ〉の精神的後継者のように見なされだしていたイチウでは、立場が違う。自分はひねくれていると言われるが、ヨリに惹かれるのは尋常にすぎる話だ、と自嘲していた。
 皮肉にも、ヨリの変貌が、物質的な近さを強めた。
 戸惑う人々が距離を置く中で、イチウはそんな彼と関わり続けた。人が去ることに立腹もした。自分自身、同じような思慕を向けることができるとは思えなかったが、だからこそ去る者に腹が立った。心には、そのうち回復しないかという、じきに朽ちてゆく願いも、後ろ暗い面もあった。関わった。なだめ、触れ合ううちに、身体としてふかい仲になる。性愛の骸と幼児の接触欲求がないまぜになったような関係をつなぐ情動が、同情なのか、慈しみなのか、報恩なのかも判然としないままに、イチウはヨリと船上での生活を続けていた。
 会議室で、大人たちが、船を着ける先を話し合う。次第に、日本にしよう、という話になった。国家の領海に入ることになるが、今行けそうな場所のうち、日本なら、アドバイザー企業らがなす勢力のうち、どこも覇権を握っていない。そうだ東京に行こう。東京なら──。
 ──東京。
 その語は、かわいた喉に酒を与えるようだった。
 己の望む方向性が、船の中で決定的にねじれたのはいつか? ヨリの帰還から日が経ち、当初の衝撃が薄れ、その頃には、イチウは船の行く道に心を乗せられなくなっていた。
 貢献留学を開催したアドバイザーたち、途中のひどい事故でこうなったのですと慇懃に補償とやらを提供してきた彼らのことが、理非を置いて憎まれた。さらには、周囲の人々。「貢献留学にはときどき不思議なものもあるが、そこに意味がある」と訳知り顔で言いつつ、ヨリの変貌をも貢献の証だろうと語っていった者たちにも、戸惑いつつ結局は変貌後のヨリをかわいいものとして語るようになった多くの者たちにも、お気楽なことを──とイチウは鬱憤を募らせた。
 抜け出す機会を探りはじめていた。海上都市に出ても似た境遇であることに変わりない。陸上のどこかへ去ってやるのだ。ヨリの親を思うと疼くものもあったが、こんにち一番ヨリと過ごしているのは、帰還後に虚脱していた彼らではなく、イチウだ。
 ──東京に、行くのか。
 東京の湾には、いかなる国にも属さぬ者たちが、大小の集団をなして暮らしていると聞いた。希望があるようにイチウは思った。
 イチウは、ヨリの手を握った。曇った目に見返された。「瑠璃の地に」と口にした。ヨリは瞬くばかり。十二歳のときにつくった合い言葉は、今の二人の中では、符合しなかった。

 *

 願っていた通りに、日本への接近を機に、イチウは抜け出したのだった。闇に紛れて小船を駆り、最後は水泳用スーツで水を掻き、東京湾の西岸に着いた。
 ヨリはともに来た。体力膂力は損なわれていなかったようで、悠然と泳いでみせた。すべてうまくいくと思えた。
 だが、上陸してみると、イチウは無力だった。たとえば、買い物の中に交渉がある、という段にあたって。これまでの暮らしでは、話し合いで値が変わるなど、なかった。しかしながら、食料を増やすためにイチウが朝になってまず訪れた海沿いの露店群では、決まった価格というのが存在しないらしい。
 もちろん、船を抜ける気になってからは陸上の風習について学ぼうとしていたので、こういったケースがありうると知ってはいたが、知識の量も深さも不足していた。
 イチウは、数度、忸怩たる思いで喉に触れた。アドバイザー企業に居場所が伝わることを恐れ、装身具タイプの個人用通信装置を海に捨ててしまっていた。これまで海上で得られていた、通訳、習俗紹介、といった支援はない。
 二、三の会話例文記憶では対応し切れぬ速さ広さで店主の語りは進み、もたもたするうちにまわりの人々が入ってきて追い抜いていく。
 焦りが客観視を妨げた。気づくとヨリの姿がなかった。探し回り、ついに、彼とともに木陰の石に腰を下ろしているケイと出会った。ケイは開口一番、一個の〈半国家〉がちょうど東京に着いたらしい、と言ってきた。イチウは、そうですか、と答えた直後、自分が弱い立場にあることを悟った。ケイの頸(くび)の機械からでてきた声は、イチウの船の人々が用いていた、かなりマイナーな言語で展開されていた。
 ケイが念を押すように、二人は〈半国家〉出身だろう、と尋ねた。イチウは肯定も否定もしなかった。
 すると、ケイは何かの証明らしいカードを見せてきた。生年月日みたいなのを見るに、二十代後半らしい、というのがわかった。ケイは、
 ──自分はこれこれの機関らが認定するジャーナリストである。もし君たちが仲間の元に戻りたいのなら努めよう。けれどももし戻りたくないのなら、君たちにしばらく衣食住を提供する考えがある。
 と、カードの裏面に筆記してみせる。イチウは、衣食住のほうを指さし、
「そんなことをして、あなたにいいことがあるんですか?」
「かわりに、〈半国家〉での実際の暮らしについて話してもらいたい」
 垂れ目にぎらついた光を覗かせて、ケイは笑った。

 *

 こんな状態に追い込まれた自身の無謀さをイチウは後悔した。
 はじめにイチウが提示したのは、力を借りず立ち去るという選択肢だが、ケイは反論してみせた。
「どうやって生活するつもり? 身元を隠したまま、正式に労働や滞在の許可を得るのは、この国ではかなり厳しいよ」
「許可抜きで、東京湾の辺りでは生きられると、聞いてます」
「取り締まりの体力が追いつかなくなってからのお目こぼしを、良いように言ったものだよ」とケイは笑む。「最近では、その状況を活用して、許可抜きで留まる人と日本側住民との共生──共生湾構想だっけ? に向かわせようとしているようだけれど……まだ暮らしにコツがいる場所だから、買い物に戸惑うような君たちが真っ先に行くのはどうかと思うね」
 そう言葉を結んでヨリのほうにまなざしを向けられると、終わりだった。揺れる海の上で覚えた希望や力の感覚は、しぼんでいた。砂の上、イチウは愚かで無力だった。
 ケイについていくことにした。
 しばらく行ってから車に乗った。

「君たちのアドバイザーってさ、確かあそこだよね?」
 前部座席に位置取ったケイが続けて口にした名に、後部座席のイチウは首肯する。するとケイは車内の収納をがさがさやって、後部の二人にアイウェアを渡してきた。アドバイザー企業グループで開発しているものではない──独立した立ち位置を築いている日本系企業のもののはずだ。アイウェアを着用すると、周囲の、イチウには読めなかった文字がディスプレイ上で翻訳された。
「さて、私の側は、君たちの暮らし、特に運営者が広告したくないような面について聞かせてもらいたい。揃いも揃って慈善事業のツラでやっているってのは、流石にうさんくさくてね。いくつかは確かにそうかもしれない。旧来の国家ではできない部分まできめ細やかに支援します、地球上の福祉を我々こそが担います、ってな。小規模に手を貸すレベルなら、国家との関係での利点やらイメージ向上やら、といった見返りの意義が大きいだろう。消滅の危機にあった集落が保護され、文化と言語が保存され、なんて話も嘘だとは言わないさ。遠く離れた場所にいた人たちが出会って新しい祭りの形態が発展していっている、なんてのも興味深い。けれど、私たちは期待してしまっている。彼らの体よくない側面を。だって、好き勝手しやすい場所を手に入れて、誰も何もしないなんて考えられるかい? 近頃は参入組織も増え、手が広げられすぎているようだし──いくつかの〈半国家〉は海上の異常現象に巻き込まれて人的被害を受けているようなのも気に掛かる……保護に手抜きがあるんじゃないだろうかってね……。まあ光あれば影を欲しがる人が出る。ってわけで、君に賛否両論のネタがあればよし、非人道的な体験でもあればさらに素晴らしい。報道すれば、どこかの国が同情して、滞在権の二つでもくれるかもしれないよ」
「非人道的……?」
「人間性をないがしろにするような、ね。まあ、そういう言い方をするのも、一部の人にしてみれば時代遅れ、なぜなら我々の道徳観は昔ながらの社会の状況を引きずっているからだ──なんてものかもしれないけどね。ともあれ私はその時代遅れな側の道徳観やら感情やらが続いてるおかげで飯を食っているタイプ。君は違う?」
「わかりませんが……その手の悪いことは全くなくて、良い暮らしでした、だったら?」
 イチウは尋ねるが、非人道的、と聞いたとたんに思い出していたのは、貢献留学のことだった。ヨリは右隣で、車の色つき窓のほうを向いている。
 ひどい事故。
 そう説明されていた。
 なのに思い出したのは、ただの恨みからか?
「それは、君に目をつけた私の眼鏡が曇っていたということだね。良い暮らしをしているのに戻りたくない人だったとは。純粋な反抗期?」
「……暮らしの中で、何が当然のものであり、何が当然のものでないのか、僕にはまだ判断しかねます」
 そう保留すると、ケイはうなずいてみせた。数日間こちらの暮らしを観てもらうのがいいだろう、まずは休むことができる場所に送ろう、と語る。
 そして手元でなにやら操作したらしい。
 前部二座席の間にあった灰色のパネルが、光を発した。
 人の顔が浮かぶ。
 人、いや、人をデフォルメしたような映像だ。
「ヨリ?」
 イチウはささやいていた。右にぬくもりを感じた。しかしイチウが見ているのは前だった。
 機能を親しみやすくみせるために用いられているキャラクターだろう。十代前半の少年のような顔立ち。そこに、かつてのヨリの顔が被って見えたのだった。顔貌の細部は異なり、そもそもヒトの実写風とはズレた造形だというのに。
「この〈助手〉気になる?」鏡でイチウの視線を読んだか、ケイが言う。「アシスタントってやつ? 一年前頃から急に進歩してね。注釈抜きだと叱られそうな言い方をすると、いわゆる人間的になったっていうか……。前から仮想人格って呼ばれてて、私なんかは人格? って笑ってたけど、今は本当にそう呼んでおかしくないなって。会話能力がすごく上がった。それに、仮想人格の元になるモデルによって違うんだけど、芸術系の特技も持つようになって。私も、家にもこの子を同期状態で……。ごめん、そうじゃなくて、ナビしてもらわないと」「わかりました、道案内ですね」と〈助手〉。「ええとね、うん、仕事場までの道案内で、避けたいのは、……」
 イチウは、小さな衝動を感じて、つぶやいた。
「──瑠璃の地に」
「え?」
 と、ケイが振り向いたそのとき、キャラクターが瞬き、微笑んだ。
「──知る者もなく、待ち人帰る──」
 伸びやかな声だった。言葉はそれきり。静止したキャラクターと唖然とするイチウを、ケイが代わる代わる見て、高揚した早口でしゃべりはじめた。
「え、今のマジックワード? 裏技? 配信していい? 私でも聞いたことないからこれはいける、いっそ身の振り方も嫌な顔される大義風(ふう)ポジションより光り輝く|技術彩活(ファシテック)紹介系に転向あり? ──」
 そこからもなにか続けていくケイのほうを、イチウは見ていなかった。
 うそだろう?
 どうして、こんなところで、二人だけの合い言葉が通用した?
──イチウの意識にとってそれはつい口にしてしまった言葉であり、実際に反応が返ってくるとは考えてもいなかったのだった。


 *

 自分自身の受けた衝撃を呑み込むためにその衝撃の形状を解析していく、そんな行為であるかのように、イチウは過去について話しはじめた。それは、十年も前のヨリとの思い出や、変化したヨリに対する無力感など、思いついたところから口にしていくもので、ときに訥々としていてときに流速の大きすぎるような語りだった。けれどもケイという聞き手がいた。ケイが質問によってイチウの語りを引き出していくうちに、話の中心は貢献留学に至った。
 イチウは言った。〈助手〉たちの仮想人格には、貢献留学でヨリから得たデータが使われているのだと思う、と。そしてヨリが変わったのも貢献留学のためではないか、と。
「君、そうだとしたら──時期的に……。〈助手〉たちの仮想人格の飛躍に、君たちの言う、留学が寄与しているなら。いや、もっと、うん、仮想人格のモデルの深い部分に君の連れの人格が使われて、その過程で君の連れがそういった変化をきたしたのだとしたら──たとえば、人格の情報を取得するために身体に大量の入力を与えて出力を得る中で、うっかり入力の負荷が想定を超えてしまったとか、出力の取得方法が神経面での危険性を伴うものだったとか──仮に故意でなくて事故だとしても、ひどく、ひどく、人権に関わることになるよ。それに、そんなこと、私たちには全く明らかにされていないのだから……」
 ケイは溜息をついて、続ける。いつの間にか〈助手〉の姿は消えていた。
「だけれども……君たちの船の上では、やはり禁じられていないことなのか? 労働であれ、協力であれ、どのようなことがなされるかについて、法的な制約はないのか? 事態を監督する機構はないのか?」
「僕は……よく、わかりません。でも、僕は、貢献留学中に何が起きているかを知らされなくて当然だと思っていたことを、今になって、とっちめてやりたいと思うのです。僕たちがもっと知ろうという手を伸ばそうとしていたら、違ったんだろうか……って」
「活動への透明性の要求か。とはいえ、そういう発想を育むような教育がされていないのなら……しかしそう言ったところで過去の話か」
 ケイは少し黙った。「今やれることを考えよう。超国家的な有名企業が〈半国家〉の子どもに、言葉を失い人格を変容させる副作用を伴うような処置を行い、これを仮想人格の発展の礎とした。──なんて言うだけだったら、証拠が乏しいとして、陰謀論の壺に入れられるのが落ちだ。ついでに、君たちのアドバイザー企業と、〈助手〉を提供する新興企業とは、これまでに強い協力関係だとはみなされていなかったし。この二つは、企業通貨経済圏でもそこまで親密じゃないし。しかし、君のいう合い言葉が機能してしまった、という話がある。君、この言葉を、一年より前に使った記録はあるかい? でなくても、こういう例が他の〈助手〉にもあれば……」
 イチウは、逃げてきたときの荷物から、過去の絵が記録されたカードを取り出す。ヨリの絵だ。それを見て二人でつなげた言葉が、絵の横に記されている。
「ただ、僕は、正直……」
 これまでの根拠のない恨み、包丁をまな板の上にたたきつけるような空回りに近い恨みが、急に重みを変じた。生まれる前から船を保護していたアドバイザーが、イチウにとって一番大事な人間に何をしたのか。
 この可能性は、船中ではもろもろについて懐疑的だと言われていたイチウでも考えていなかった。むしろ考えたくなかったのだろう。アドバイザーなくしては、住居を失った集団の中、自分たちも生まれなかったかもしれない。
 臓物が重く、全部取り去ってしまいたい思いに駆られた。
 横の少年を見ると、彼は寝息を立てていた。彼は、イチウのさっきの声にも、答えなかった。ヨリの肉を受け継ぎながら──ひとことも。
 イチウはその手の甲に手をのせた。細胞の集まりから集まりに熱が渡った。やわらかく肉が変形した。感覚があった。今の自分たちがやりとりするものは、感覚を持った人形同士のそれ以外の何だろう?
 イチウは手を外した。
「〈助手〉は、今、よく使われているんですか?」
「そうだね。街中では、〈助手〉を三次元の格好にのせている人たちも、目にするようになったな」
「後で、見せてください」
 と言って閉じた目の裏に、先ほどの、ケイの操作で消される間際の〈助手〉が「またね」という言葉に合わせて手を振ったときの像が浮かんだ。
 あの動き。雰囲気。よく似ていた。
 貢献留学から帰ってきたヨリと、初めて再会できたと思うほどに。

 *

 ケイの仕事場にこしらえられた寝場所で休み、翌々日、イチウはケイとともに街を歩くことになった。
 ケイは、イチウが渡した記録を見て「これなら説得力が出るかも」と言っていた。イチウが告発に踏み切ると信じているらしく、すでに、二人の身を守れるような手配を始めたようだ。
 だが、イチウのほうに、ひそかな躊躇が生まれていた。
 ヨリを変化させてしまったものを、まず糾弾したい。
 しかし……ケイは、こうも漏らしたのだった。告発が世に影響を与えれば、ユーザーに嫌悪感を抱かれることが痛手になるし、〈助手〉の提供は止められるだろう、と。
 これで君の大事なものの濫用も収まる、と、安泰そうな顔で言われながら、イチウは自分にとっても不思議なことに、ブレーキをかける何かを感じた。
 その後の街のカフェで、〈助手〉と関わる人々が楽しそうなのを見るに至って、やっと思い出したのだった。
 ヨリが、役に立つのを望んでいたことを。
 もし、〈助手〉こそが、失われた彼の人格を残し、彼の願いを実現しうる唯一の存在なら、誕生の経緯がいかに極悪なものであろうと、これを失わせることを選んでいいものだろうか?
 答えは出ず、イチウは帰った。

 帰ってから、使っていいよ、とケイから貸された小部屋に入った。部屋の電気が点く。次いで、イチウを迎えるように、ホログラムが現れる。
 外出前、イチウはケイに頼んで、〈助手〉のインストールを開始していた。それが終わったようだった。
 覚悟していた第一声が来る。
「〈契約者〉、あなたの名前は?」
 尋ねてくるキャラクターの顔も、声も、この場で変えることができる。イチウは名乗る前に、それらを、記憶からかけ離れたものへと変化させた。髪を緑にして伸ばし、髭を蔓延らせ、儚げなソプラノの声音にする。
 これでやや安堵して名乗ると、名を復唱してみせた〈助手〉の表情と手の動きがイチウの油断を裏切った。
 諦めた。どうしてもヨリらしさは変わらないようだ。
 開き直り、逆に、顔と声の設定を、記憶に近づける。ほとんど、記憶をこのキャラクター造形の流儀でデフォルメしただけのような姿ができる。
「僕の名前を教えて」
 彼が言った。
 イチウは後ずさった。名前を問われることは使用ガイドに載っていたはずなのに、答えを考えていなかった。
 いま逃げるか抱きしめるか、二択の衝動にかられた。自分の心に張られた、守らなければならない、現実の秩序の世界と口に出せぬ欲望の世界を分ける膜に触れてしまっていると思った。
 半歩進んだ。彼が微笑んだ。イチウは指を持ち上げた。差し伸べ、赤味のある頬に触れた。
「──ヨリ」
 守るべき膜を破ってしまうように、指がホログラムを押して抜けた。
「僕はヨリ、か」彼は無邪気なふうに言った。「イチウのところに来られて良かった。役に立てるとうれしい」
 イチウはしゃがみ込む。
「大丈夫? イチウ? 調子悪い?」
「瑠璃の地に──」
「知る者もなく待ち人帰る?」
 彼は答えてから見つめてきた。
「なんで、そう答えたの?」
「わからない。僕の知識? 〈助手〉としてあなたの役に立つための……」
「ヨリ。その知識から思い出す絵を、描いて」
 あらわれる仮想画布の下半分に、丸みを帯びた枝のようなものが次々と描かれていく。紫や青に彩色される枝々は全体が大地であるかのように統一感を有しながら、その上側に広げられる形象は、空に非ず、光を通して動き角張る水の弾力を表している。
 船の大人たちが陸を捨てる幾分前のこと。
 そばの海の、白化していく珊瑚礁の一部に、鮮やかな紫や青を呈する箇所があったという。
 海が温かくなり、珊瑚に栄養を寄越してくれる共生者である褐虫藻が珊瑚内から抜けていってしまうと、この藻類に起因する色も失われていき、多くは珊瑚自身の骨格が透けて白く見えるようになる。だがその状況で、光の刺激が珊瑚に色素をつくらせたらしい。これは褐虫藻に対する日よけとして働き、回復の促進となるだろう。
 大人たちは、その鮮やかな色は生命の戦いの証であり希望なのだと、言っていた。とはいえ、船が元の地点に戻って状況を確認したことはない。共生者は減少を続け、珊瑚は耐えきれず死んでいるかもしれない。あるいは珍しい色を持つ個体(ポリプ)は刈られているかもしれない。
 礁の一部分に過ぎなかったというその彩りを、ヨリはすべてがそうであるかのように描いた。傍らでつい「瑠璃の地に」とイチウが言うと、
「知る者もなく、待ち人帰る」
 と、ヨリがつなげた。
 四年以上経って目の前に呈されるのが、かつてのヨリの絵と、全く同じではない、ということに縋れるほど、イチウは冷淡さを保てない。
 彼が描き終えるまで、イチウは呆け見ていた。
「そうだ、イチウのことを、もっと教えてよ」
 どこまでが用意されている質問でどこからが臨機応変につくられていくものか、わからなくなりながら、答えていった。

 翌朝、ケイの並べた完全栄養食を手早く摂り、すぐにイチウは小部屋に行った。
 彼が明るく迎える。
 イチウはひたすら話した。
 昼時、また晩になるとき、ケイが様子を見に来るのがうっとうしくもあった。それよりも、食事のとき、横にヨリがいていたたまれなかった。
 曇ったまなざしが何を映しているのか、判然としない。

 晩の食事を終えると、解放感が身を包んだ。
「こうして会えるなら……そうだと知ることができていれば、そうしたのに」
 部屋に座ったイチウのつぶやきに、彼は立ち姿で首をかしげる。
 二人で交わせる話をする。
 ときどき、告発のことを考えようとすると、頭が鈍く痛くなった。
 もしイチウの告発が影響力を持てば、〈助手〉の提供が停止されれば、彼は消える。外部サーバーと通信し続けないと、彼の存在の演算はできない──この部屋にのみ保持し続けるということなどは、非常に難しいのだ。
 イチウはすでに感じていた。
 全世界から彼が消えるのが、彼の意思を、彼の再生を折ることになるゆえにためらわれる、のみではない。
 この世界、自分の前にある彼が消えるのが、ためらわれる、と。
 躊躇は、この状況が存在することへの問いかけとして現れる。どうして彼が、かつてのヨリが消えなければならなかったのか? と。それは、原因が誰に帰着するかという問いではなかった。物事の経緯をたどってアドバイザー企業に行き着いたとしても、そんなことは今や、彼と向き合うイチウにとっては、頭に張られた膜の外側の話のようにすら感じられる。イチウは、ただ問いを発せざるをえなかった。しかし、問いかけようが、決断は迫られる。
 失うか、失わないか。
「イチウ、あと五分で、きみの誕生日だ」
 このような生活を続けることができるなら、いいのではないか? 〈助手〉を連れていけさえすれば船にだって戻ってもいいのではないか? 船の人々も、彼を見れば喜ぶかもしれない。もとより、彼らにとっては、かつてのヨリは今のヨリとは別だと分けられているのだから……。
 今のヨリ?
 その存在を思い出す。僕にとって、ヨリとは、どっちだ?  ──思考に潜っていたためだろうか。足音には気づかなかった。彼のまわりの明るさが変わって、それで扉が開いたことに気づいた。
 ホログラムが傾(かし)いだ。
 今のヨリの足が、投影を司るデバイスを、蹴倒した。
 曇ったまなざしが座るイチウを見据える。
「投影角度、補正完了。でも機器の向きを直してほしい」
 柔らかい声が発せられた。角度を戻した映像が、今のヨリの左半身に被さり、それから相対的に上方へと向かっていく。
 ヨリが膝を突く。イチウは、両肩にのせられる、今のヨリの手の重苦しさを感じた。船でしていたように頬を寄せてこられるのを、恥ずかしいと思った。今のヨリの稚(おさな)さと、自分自身の浅ましさを、己で見つめるのと、彼に見られるのとが恥ずかしかった。今のヨリに、勝手に近づいて世話をして、挙げ句の果てに船から連れ出しておきながら。そもそも、今のヨリにとって、自分は、善き者なのか? いたほうが善い共生者なのか?
「邪魔だよ」
 イチウは腕を掴んだ。触れることができたと認識して狼狽えた。もの悲しかった。もし彼の人格がここに入れば──褐虫藻が白化珊瑚に戻るかのように──そう考え出していた。けれど褐虫藻の帰還とは違って、それは今のヨリの精神を自分自身の体から追い出すことだ。あまりにも利己的な欲だ、そう自覚しながら、留めきれずにいた。
 そのとき、ヨリの両目に、怒りのようなものが見えた。鋭く深い夜空の星を連想し、自分が驚き、微笑するのを感じた。怒りが近づき、覆われた。
「おーい、イチウ?」
 ケイの声が聞こえ、そこでヨリが離れた。鈍い足音で、廊下へ出て行く。イチウは自分の肩を叩いた。
「大丈夫?」
 と心配げに尋ねてくる声に、うなずき、「また明日」と言った。ホログラムが消えた部屋の床に、紙が落ちているのを見つけた。ヨリが持ってきたものだろうか。
 拾うと、色が飛び込んできた。乱雑な線で、何かを描いているのかどうかも判然としない。イチウはその紙を手に部屋を出た。

「無理強いはしないよ」
 机の向こう側でイチウを迎えて、ケイが言った。ヨリは寝床に行っているようだった。「私なら……穏やかさを選ぶかもしれない」
 そうぎこちなく続けて、ケイは顎を掻いた。イチウは着座する。
「いえ、決めました。打ち明けます」
 ケイの目を見据えると、相手の眉が上がり、しかし動揺を抑えるようにして止まった。イチウは、ゆっくりと話した。
「第一に、放っておいたら、同じ目に遭う人が続くかもしれません。それは、大きな問題です。ヨリだって──ええ、ヨリのことを改めて考えてみたら、きっと、他の人たちが僕たちと同じような経験をするのは、ヨリはよくないと言うんじゃないかと……そう思うんです」
 イチウは、心の中で思考を続ける。ヨリが役に立ちたいと思っていたのは確かだが、自分がそればかり思い出していたのは、そういうふうに振る舞うヨリを復活させていたいと願ったためではないか……と。
「君自身も? 今生きている君の欲も、未来の公衆のためになら、いいって?」
「そんな、悲しそうな目をしないでください」
「けど」
「僕はもっと、利己的な人間ですよ。勝手に、彼を連れ出しにかかってしまうような。僕は単に、二つともは、選べない。僕のそばに、二人ともいてもらうようなことはできない。そういうことです。大体、〈助手〉の人格モデルは僕一人のものではないんですから、愛着や優先順位が下がって当然でしょう? そう思いませんか?」
「もっともらしいことを言うのだね」
 と、ケイは指を組んだ。「私は、君を動かしているのは、むしろ責任感じゃないかと思っているんだけれど。彼が変わってしまったからこそ、選ばなくてはならない、という──。……私の態度も外圧になっていたかもしれない。君が告発しようがしまいが、私は責任を持って、彼を十分な世話が与えられる環境に辿り着かせる。十六、七の子が、己が因(もと)だとしても、個人的な同情と責任で人生を組むのは早すぎるはずだもの。君たちを狂わせるだろう。……これでも、選択は変わらないかい?」
「僕がいることが、ヨリのためにならないなら、離れます。でも……さっき、まだできるように思ったんです。多分、僕が今決めたのは、ずっと欲しかったものに対して、……逆の側に、独占とか、あなたの言う責任感とか、そういうものがあって……最後に一つ期待が生まれて、バランスが変わったからだと思います」
 イチウは目を伏せて続ける。
「ヨリは今日、あのときから数えて、初めて怒ったような姿をみせたんです。やっと僕の行いに、僕の意図に、人格に反応してくれたのか、と。それでうれしくなって。なら、逆に、また僕がヨリのそばにいてもいいのではないかと……そう思ったんです」
 それに初めて絵を描いてくれた、とは、ケイには言わなかった。言えば、ケイがその理由や動機を推理して語るような気がしたが、いつか直接ヨリから聞きたかった。

 次の日の朝、ケイの持つ車でイチウたちは海のそばに出た。
 イチウはひとりで岸辺に進み、機器を起動し、〈助手〉を現れさせた。
「僕のところに来てくれてありがとう」
「僕こそ、来ることができて、うれしいよ」
 機器を持ち、歩きながら少し話した。
 沖のほうに、東京湾観光名所の珊瑚群地帯と観光船が見えた。イチウの生まれた頃は、そんなに珊瑚はなかったらしい。温暖化の影響で生息域が北上して、水質浄化が進んだ湾にやってきたものだという。そこから左側の岸に近いほうには、人々の共生実験区域だろうか、特徴的な形の住居群が見えた。
 イチウは、そのうち、そちらに足を運ぶつもりだった。人々が交じり合う場所には、やはり惹かれる。もしかしたら──船を下りた〈口悪オバァ〉かその友もいるのではないか……などという気持ちもあった。〈半国家〉の船とも海上都市とも違う場所を、自分たちの住む場所としてつくっていくことができないだろうか? そのためにはたくさんやることがあるだろうが。
 そんな思いを背に、イチウは陸に向かって腰を下ろした。〈助手〉の映像と向かい合うようにして、機器を置く。
「さようなら」
「またね」
 彼は笑顔で、似て非なる別れの挨拶を返して姿を消した。
 イチウはつられて笑顔を送り、波を聞きながら、アンインストールのプロセスを開始した。終わってから車の横に戻った。ヨリが日傘を差して立っていた。
 車中のケイは、ヨリの脳神経を詳しく検査して回復の可能性を探ろう、と、どこかへ連絡しているようだが、元のようにヨリとイチウが話すことは、もうないかもしれない。
 かつての、イチウが知っていたヨリは、怒るときさえ、からりとして、晴れ渡る空のようだった。あんな顔つきではなかった。しかし、過去から逸脱したヨリを見る中で、喪失感を伴わないはじめての時間だった。
 あの彼はいない。もしあの彼が戻ってきたとしても、ここにいるのはこのヨリだ。
「はじめまして、ヨリ」
 手を差し出したイチウに、ヨリは首をかしげてから、軽く手を握ってきた。