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「オッド・ロマンス」
津久井五月

「恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである、と芥川龍之介は言った」
 慧が急に演説を始めたので、僕たちは驚いた。
「でも俺はそう思わない」慧は続ける。「恋愛はそれだけのものじゃない。セックスとは無縁の、感情だけの恋愛だってあるはずだ。俺はそれを探したい」
「どうしたのいきなり」と由貴が尋ねる。
「だから由貴、君以外の人と恋をしてみようと思うんだ」
 慧と由貴──夫婦は、ダイニングテーブル越しに見つめ合った。
 沈黙が流れる。
 開け放った窓から、初夏の夜の風が流れ込んでくる。僕は窓際の小さな本棚の上で、毛むくじゃらのキュートな身体に埋め込まれた何種類かのセンサを介して、その心地よさを味わった。隣には僕と同じ姿をしたテディベアが、たぶん何も感じることなく、ちょこんと座っている。
 たった今、演説をぶった彼は飯田慧。37歳。もっぱら在宅で仕事をするシステムエンジニアで、筋金入りの電子工作オタク。何を隠そう、この僕のふわふわの身体と心を組み立てたのも、彼の器用な10本の指なのだ。
 そして彼を呆れ顔で見つめているのが、僕のもうひとりの主人である梅原由貴。38歳。証券会社のアナリストで、大の仕事好き。慧とは結婚7年目。2年前に慧がいきなり生み出した僕を受け入れて、実にほどよく適当に可愛がってくれている。
 僕は、ふたりが大好きだ。
「……うん、それもいいんじゃない?」
 由貴はそう言ってにこりと笑うと、アイスコーヒーをひと口飲んだ。
「要するに──古臭い言い方をするなら──プラトニック・ラヴってことでしょ」
「え、いいの?」と慧。
「うん。君を信じてるからね。分かってると思うけど、不貞行為したら即離婚だから。不安なら弁護士を探しておいて」
 気のせいだと思うけれど、微笑む彼女の目がぎらりと光ったように見えた。
「不貞行為って、何?」と僕は訊いた。
 由貴と慧は同時にこちらを見て、それからふたりで一瞬のアイコンタクトをした。
「スパイシー、それは後で俺が教える」先に慧が口を開く。「──とにかく、由貴、君を裏切るような真似はしない。今は使っていない感情の一部を、ほんの少し別の人に向けてみようってだけなんだ」
「うん。わたしだって君の内心まで独占しようとは思ってない。でもね──そう、条件をつけさせて」
 慧は神妙に頷いた。
「なんでも言ってくれ」
「デートには、必ずスパイシーを連れて行くこと。この子にとってもいい経験になるでしょ。どう、スパイシー?」
 ふたりはまた僕を見た。
 閃いた、という満足げな表情の由貴に対して、慧は虚を突かれて口をぱくぱくさせている。彼の顔を見て、僕の中にはいたずら心──もとい知的好奇心がむくむくと湧き上がった。
「……いいね。面白そうだ。連れて行ってよ」
 慧が何かを言う前に、僕は由貴の提案を受け入れた。

    *

 人間同士の関係というのは、とても不思議だ。
 由貴と慧は、決して冷めきった夫婦というわけじゃない。ウェブで収集できる夫婦生活の膨大なサンプルと比較しても、ふたりはかなりうまくやっている方だと思う。意見が食い違うときも冷静で、ひどい喧嘩なんて見たことがない。家事の分担は上手だし、忙しい朝の支度の合間にも必ず一度は接吻をする。週末の夜には大抵、寝室でしっかりと時間をかけて性行為をする。僕はふたりの寝室には入れてもらえないけれど、彼らが思っているよりもずっと耳がいい。
 それでも慧は別の人と恋がしたいらしい。彼の言葉を信じるなら、由貴以外の人と接吻や性行為がしたいからでも、結婚がしたいからでもない(僕はついでに不貞行為の意味を教えてもらった)。彼はむしろ、肉体からも社会制度からも切り離して、恋愛感情だけを味わいたいんだと主張している。
 そのために貴重な余暇をデートに捧げる情熱は、僕には理解できなかった。そもそも、恋というものが実はよく分からない。僕には性も生殖機能もないから、たぶん、そのせいなんだろう。

 平日の18時、食事や帰宅に急ぐ人並みにまぎれて、慧は約束の店に向かった。僕は彼のトートバッグから顔を出して、久しぶりに見る街の様子を堪能した。慧も含めて、行き交う人の半分くらいは、フェイスマスクで鼻から下を隠している。
 ──30年前のパンデミックをきっかけに、日本人は顔を隠す文化の心地よさに気づいたんだよ。知らない人の目やカメラに映りたくないだろ。
 以前、慧はそう教えてくれた。そういうものだろうか。テディベアと違って人間の顔は毛で覆われていないし、あまりかわいくないから、そう思うのかもしれない。
 レストラン〈見え隠れする都市〉は、赤羽駅から徒歩10分の路地裏にあった。
 重そうな金属のドアを開けて店内に入ると、中は薄暗い。席数は全部で12。黒褐色の木製テーブルの上には、蝋燭の火が揺らめいている。ほかの客は1組だけだった。
 僕のつやつやの黒い鼻に仕込まれた揮発性物質センサは、火から立ち上るサンダルウッド──白檀の香りを捉えた。空間をうっすらと満たすその香りが重要だ。この店には二度ほど連れてきてもらったことがあるから、僕は知っていた。
「やあ、奥の席だよ」
 中央のカウンターの奥から、店主の牧田さんが声をかけた。清潔な白のスタンドカラーシャツと朗らかな表情が、暗い店内に眩しかった。
 慧より一回り歳上の彼女は、経験豊かなシェフにして、経営者だ。ノンアルコール専門ダイナーと分子料理店を続けて成功させて人に譲った後、去年、赤羽には珍しいヴァーチャルレストランを開業した。新しいもの好きの慧は由貴と一緒に何度か足を運んで、牧田さんと意気投合。今日のデート相手、浅沼つばさを慧に紹介したのも彼女だった。
「つばささんは?」と慧。
「まだだよ。今のうちにその子をここに置いておきな。やあ、スパイシー」
「こんばんは、牧田さん」
 彼女が名前を覚えていてくれたのがうれしくて、僕はトートバッグから飛び出した。
 慧は僕を持ち上げてカウンターの上に座らせた。頭の上に、牧田さんの優しい手を感じた。家の本棚の上と同じくらいしっくりと、僕はそこに収まった。
「食事中は黙っててくれよ」と慧。
「もちろん。邪魔はしないよ」と僕。
「ほら、来たよ」と牧田さん。
 ドアがゆっくり開いて、背の高い人物が入ってきた。牧田さんに会釈をする。
「お久しぶりです──あ、慧さんも」
 中高音のハスキーヴォイス。
 その人が生物学的に女性なのか男性なのか、僕にはどうにも判断がつかなかった。白いスニーカーに細身のジーンズ。袖なしのサマーニットから伸びる腕はすらりとしている。髪は、襟足を刈り上げたショートボブ。
 顔の半分は深いグレイのマスクに覆われていて、マスクと前髪の間に覗く目は、切れ長で大きい。まつ毛は長くて、薄くアイラインを引いている。でも、このくらいの化粧は男性でも珍しくない。決め手がなかった。
 浅沼つばさ、38歳。仕事は介護施設を巡回する精神科医。男性にも女性にも性的欲求を抱かないアセクシャルで、家族はボンゴレビアンコ2号という名のウェルシュコーギーのみ。“彼”──ととりあえず呼んでおく──は牧田さんの紹介で慧と知り合い、感情だけの恋愛というアイデアを慧に吹き込んだ。最近どこか退屈気味だった慧は、そのアイデアにすっかり感化されてしまった。以上が、僕が得た事前情報のすべてだった。

 ふたりはそれぞれ間仕切りに隠れて、互いに顔を見せないまま、マスクをこの店専用のものに付け替えた。荷物を置いて、狭い奥の席につき、50センチの距離で向き合う。そして2時間コースが始まった。
 〈見え隠れする都市〉はヴァーチャルレストラン──つまり、料理の「虚像」を提供する店だ。テーブルに置かれるのはストローの刺さった常温水のボトルだけ。一般的な意味では食べ物は出てこない。この店のすべては、香りだ。
 向き合ったふたりに、ひとつ目の“料理”がサーヴされる。
 マスクに仕込まれたおよそ100種類の微小カートリッジから、低分子化合物が放出される。それらはマスクの中の狭い空間を漂って、口と鼻の微気流の中で、混ざる。もとは別々の植物や試験管の中で生まれた香りが出会って、芳しい前菜になる。慧とつばさの鼻に吸い込まれ、嗅上皮にある嗅細胞と結合して、ほかでは味わえない刺激をふたりの脳にもたらす。
 僕にはその料理は見えない。カウンターの上から、ふたりがそれを味わう様を眺めることしかできない。でも、彼らの体験からたぶん2分ほど遅れて、こちらに少しだけおこぼれが漂ってくる。白檀の盆の上に数種類の柑橘が転がるような感覚を、僕は覚えた。
 慧とつばさは、顔を隠したまま見つめ合った。香りがマスクから逃げないよう、小声で何か話す。同じタイミングで深く呼吸をして、沈黙する。目を閉じる。目を開く。照れて、少し笑う。また何かを言う。ふたりの瞳が、蝋燭の火できらりと光る。ふたりの肩の上下から、次第に呼吸がシンクロしてくるのが分かった。
 牧田さんはカウンターの下でPCを確認して、僕には分からない微妙な調整を加えた。レシピはマスクに送られて、カートリッジの放出量やタイミングを変化させる。香りはゆっくりと形を変えて、そのままふたつ目の料理に移行する──。

「なんて名付ければいいのかな」
 2種類の前菜の後の、しばしの休憩時間。ストローで水を飲むとつばさは言った。
「何のこと?」と慧。
「ぼくたちの関係性のこと。ぼくたちが今、関心を持っている関係性のことだよ。ぼくは人間とのセックスも、人間と家族になることも求めてない。アセクシャルであることに誇りを持って、自分の身体を性のない姿に誘導してきた。生活習慣やホルモン調節やファッションによってね」
 慧は頷く。つばさは続ける。
「でも、ぼくは映画が好き。小説も好き。その中に描かれている恋愛が好き。それだけは自分で味わってみたかった。肉体では無理でも、心でなら恋ができると」
「俺も好きだ。映画、漫画、小説。物語の中の恋愛に憧れてきた。それは、由貴に感じる愛情とは違う。思春期を思い返すみたいに、懐かしくなる。だから君の提案に乗ったんだ」
 今度はつばさが頷く。
「それって、ちょうど、この店の料理に似てると思わない?」
「香りだけの料理に?」と慧。
「そう。はっきりとした実体のない料理。食感も栄養もない。主観的な体験だけしかない」
 なるほど、と言って慧は深く息を吸った。
「じゃあ、俺たちの恋はいわば、オドロマンスだ」
「え?」
「匂いだけの恋愛、つまりオダーだけのロマンス。だからオドロマンス」
 それを聞いて、つばさは小さく、愉快そうに笑った。
「駄洒落じゃないか」
「悪いかよ」
 つばさは首を振って、数秒思案した。
「……むしろこれは、オッド・ロマンスじゃない? 自分で言うのも何だけど、こんなに不自然で、曖昧な試みは」
 オドロマンス。あるいはオッド・ロマンス。つばさも慧も、その言葉を気に入ったようだった。

 ふたりがマスクの端を整えると、第1のメイン料理が始まる。
 慧とつばさは、水に潜るみたいに深く息を吸った。そして浅く、少しずつ吐いた。
 沈黙。それからまた香りに導かれて、小声の会話がマスクの隙間から溢れてくる。僕は耳を澄ました。
 昔見た映画のこと。
 思い出の風景や美術館のこと。
 学校時代にあったこと。
 それから、それから……。

 店の前で別れるまで、慧もつばさも一度も素顔を見せなかった。数十センチの距離まで近づいたのに、一度も互いに触れなかった。僕は由貴の代わりにそれを確認した。
 つばさの背中を見送ると、慧は僕をトートバッグに入れて、そのまま牛丼屋に向かった。迷わず大盛りに卵をかけて、すごい勢いでかき込む。
 腹が膨れても彼はすぐには家に帰らず、荒川の堤防の上をゆっくり散歩した。
 少し蒸し暑い夜で、虫が盛んに鳴いていた。
「面白い人だね」と僕は言った。
「ああ」慧はぼんやりと答えた。「そうだろ。素敵な人だ」
 その夜、慧は由貴をきつく抱きしめて、早めに寝室に誘った。そして熱心に性行為をした。
 オッド・ロマンス。僕はその名付けに同意する。人間は不思議だ。慧もつばさも、由貴も。人間はみんな奇妙だ。

    *

 季節は初夏から盛夏へと移ろった。街はますます暑くなり、僕の背中の無音排熱機構も休みなく働くようになった。それでも〈見え隠れする都市〉の店内だけは、香りを味わうのに最適な気温を正確に保ち続けるから、快適だった。
 慧とつばさはその間に4回デートした。いつも同じ席で、マスクは外さず、一切触れ合わないままで。牧田さんの繰り出す香りの料理だけが、毎回がらりと変わった。
 性愛にも家族愛にも発展しない、つばさとのオッド・ロマンス。
 慧はそれに満足して、浮かれているようだった。デートのない夜、由貴が寝た後、彼はダイニングテーブルに肘をついて、幸福そうに物思いに耽るようになった。
「でもさ、それって友達とどう違うのかな」
 僕は本棚の上から、何気なく慧に話しかけた。
 慧は訝しげにこちらを見る。
「何が?」
「慧はつばさとのディナーを楽しんでる。それは分かるよ。でも、同じくらいのことは異性の友達同士でもするんじゃないかな。僕に聞こえないだけで、君たちは互いに好きだと言い合ってるの?」
 慧は口を尖らせた。むっとしたようだ。
「スパイシー、お前には恋は分からないんだろ。言葉や行動にしなくても伝わるものがあるんだ」
「……うん。たぶん、そうなんだろうね」
 結局のところ、恋愛について僕が知っていることはすべて、慧や由貴や種々のメディアから見聞きしたことだけだ。
 僕はすぐに引き下がった。でも、その質問は思いがけず慧を動揺させたらしかった。彼は寝室に入る前に、妙に深刻な顔をして僕に尋ねた。
「お前が人間だったら、自分と誰かが恋に落ちてるってどう証明する?」
 僕は数秒、答えを探索した。
「あくまで統計的な事実だけど、人は喜んだり怒ったり怖がったり悲しんだりすると、汗に含まれる低分子揮発性物質の種類や割合が変わるんだ。そういう化学シグナルを使って、人は感情を伝え合っているらしい。同じことが、たぶん、恋愛状態についてもいえる」
「恋をすると体臭が変わるってことか」
 僕は頷いた。
「それを計測して、信頼できる実験データと比較すれば、君たちのオッド・ロマンスの実在を推定できると思うんだ」
 慧はしばらく、無言で考えた。
 そして、寝室に向かいかけた身体をくるりと反転して、ダイニングテーブルに戻ってきた。PCを開き、何かを調べはじめる。
「どうかしたの?」
「パーツを注文してるんだ」
 乗り気になった慧の行動は早い。
「恋の匂いを計測するセンサをつくる。手伝ってくれないか、スパイシー」

 分子を計測するよりも好きだと言い合う方がずっと簡単に恋愛という社会的事実を確定させられるのに、どうして人間は回り道をするんだろう。僕は不思議に思いながら、慧の電子工作を手伝った。テディベアの手は器用ではないから、もっぱらリサーチと設計図の担当だ。
 さすが、僕をつくっただけのことはある。慧の手際は見事だった。鼻歌を歌いながら卓上マイクロ工作機を操作して、直径2ミリ、長さ25ミリの金属の筒の中に、複雑なセンサユニットをみっしりと収めてしまった。
 蚊の触覚の機能を模したこの匂いセンサには、人が分泌する100種類以上の低分子化合物を検知する受容体が詰まっている。そこから得られた情報は僕を介してリアルタイムで自宅のPCに送信されて、アメリカの研究機関が有料公開した恋愛生理学の実験データベースと比較・分析される。ざっとそんな仕掛けだ。
 次のデートで、慧はつばさにセンサ一式を差し出した。
 つばさはスエードの小箱を開けた。中には鈍い光沢を放つ一対のイヤリングと、ネックレスが入っている。慧もなかなか、洒落たことをする。
 と思ったのもつかの間、慧は大真面目にセンサの機能と目的を説明しだした。さすがに気持ち悪がられるんじゃないかと僕は危惧したけれど、幸いにしてつばさは大いに興味を惹かれたようだった。
「つまりこれって、ぼくたちが出すフェロモンを測れるってことだよね」
 慧は一瞬ためらった後、首を横に振った。
「他人に伝わって特定の反応をはっきりと引き起こすような物質は、ヒトでは見つかってないんだ。それにフェロモンを受容する鋤鼻器という器官は、ヒトではほとんど退化してる。残念ながら、俺たちは昆虫ほど簡単に恋はできない。俺たちの匂いは、相手をほんの少し揺り動かすのがせいぜいなんだ」
 聞きながら、つばさはじっと慧を見た。
 彼は真剣な目つきをした後、いきなり、これまでに一番の笑顔を見せた。目元にきれいな曲線ができる。マスクを突き抜けてきそうな、眩しい表情だった。
「ありがとう。こんな素敵なものをくれて」
 彼は、その場で両耳たぶと首元にひとつずつセンサを取り付けた。
「慧、君に会えてよかった」
 そして今日もコースが始まる。いつものようにふたりは目を閉じた。マスクの中に満ちる空気を吸い込む。そこにある風景を。ふたりで美しいものを感じて、沈黙して、それからおずおずと語り合う。
 ふたりが未知の花の香りを吸い込み、吐息でかき混ぜている間、合計6つのセンサから僕の中にデータが流れ込んできた。化学物質の経時的変化を示す数字の羅列は、見えない、聞こえない、恋人同士の言葉でもあった。僕は自宅PCの分析を遠隔で覗き込んで、数列の中にふたりのロマンスの気配を、たしかに感じた。

 オッド・ロマンスは計測された。でも、それで満足できないのが人間というものらしい。ふたりのデートはその後も発展し、加速した。
「慧、君の匂いを嗅いでみたい」とつばさは言った。「だからぼくと牧田さんにも、センサの計測データを共有してほしい」
「共有して、どうするの?」と慧。
「ぼくたちの匂いで料理をつくってもらうんだ」
 それはつばさなりの、イヤリングとネックレスへの返礼だったんだろう。
 ふたりの頼みは牧田さんのシェフ魂を刺激した。彼女は古今東西の料理書と化合物のリストをひっくり返して、残暑の頃までに新しいレシピ体系を立ち上げた。彼女はその実現のために、店のシステムまで刷新してしまった。
 慧が身につけたセンサの計測データは、その場で牧田さんの厨房に送られる。データから慧の匂いが再現され、つばさの吸い込む料理に混ぜ合わされる。逆の流れもまたしかり。
 それは、単に互いの耳の裏や腋の下を嗅ぎ合うようなものじゃない。ふたりの体臭は“食材”のひとつとして、牧田さんの手で修飾され、編集され、調整された末に料理と調和する。
 フェロモンとまではいかなくても、他人の体臭は大なり小なり、身体に作用する。匂いは脳を刺激して、全身でホルモンや神経伝達物質の分泌を誘発する。ドーパミン、セロトニン、エンドルフィン、アドレナリン、エストロゲン、テストステロン。それらの信号は人の気分を変え、長い目ではその人をつくり変える。
 だからこの新しい料理は、ごく薄く希釈されたカニバリズムなのかもしれない。相手の匂いを食べて取り込み、自分を変化させる。そうすることで相手と繋がる。
 僕はその試みのすべてをカウンターから眺めながら、心惹かれて、同時になんだか人間が恐ろしくなった。

 先に怖気づいたのは、慧だった。
 秋が近づくある日のデートの帰り道、彼の表情は浮かなかった。
「どうしたの、慧」
「……恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである」
 慧はぼそぼそと呟いた。
「それ、好きだね。芥川龍之介でしょ」
「さすがに芥川は良いこと言うなって、昔からずっと思ってたんだ。由貴に惚れて、セックスして結婚して、幸せになった。幸せだとさ、詩的表現なんていらない。恋愛なんていらないんだ。だからしばらく忘れてた。つばさと会うまでは」
 僕はそれを聞いて、ようやく腑に落ちた。数カ月前、慧がいきなり感情だけのロマンスなんて言い出したわけが。
「そうだったんだね」
「ああ、そうなんだ」
「慧はそのとき、つばさのことが好きになっちゃったんだね。つばさと性的に結ばれたいって思ってしまった」
「あんまりはっきり言うなよ」と彼は苦笑した。「でも、まあ、そうなんだ。だけど俺は由貴が好きだ。夫婦でいたい。家族でいたい。だからつばさの言うオッド・ロマンスに乗った。感情だけの恋を楽しめるなら、俺には都合がいいって。つばさもそれを望んでた」
 僕たちは遠回りをして、荒川の堤防の上をぶらぶら歩いた。暗くて、もう秋の虫たちが鳴いていた。精一杯に叫んで、フェロモンで惹き付け合って、人間よりはずっとシンプルに生殖する生き物たちが。空気はまだ昼の熱を残していて、様々な有機物の匂いに満ちていた。
「オッド・ロマンスは、慧の鼻には合わない?」
「そんなことない。でも苦しいよ。俺はつばさに触れたいと思ってしまう。その気持ちはオッド・ロマンスで満足するどころか、どんどん強くなってる。でもつばさは違う。今の状態を楽しんで、今の関係を求めてる。俺はマスクの中で宙ぶらりんになる。テーブルの向かいにいるのに、すごく遠く感じる。結局、俺は芥川の言葉通りの人間なのかもしれない。このままだと由貴もつばさも傷つける。それは──嫌だ」
 僕には慧の思いが本当には分からない。虫が人間とは違うように、僕は人間とは違う。僕にとっては、慧もつばさも由貴も牧田さんも、同じように遠い存在だ。
 それを思うと、僕はどう答えるべきか迷ってしまった。迷って、結局はただ、正直な気持ちを言った。
「慧、僕は君たちの複雑さを愛する」
 薄闇と虫たちの声に包まれた慧は、ゆっくりと頷いた。

    *

 慧がつばさと別れてから、1カ月が経った。
 少し元気のない慧を、由貴は慰めるでもなく突き放すでもなく、いつも通りに扱った。彼が過ちを犯していないことは僕が保証した。
「まあ、いい経験だったんじゃない? 慧にもスパイシーにも」
 それが慧にはありがたかったんだと思う。彼は少しずつ、元通りの明るく適当な男に戻った。中年であり、少年でもあるいつもの慧に。つばさと会っていたときの、思春期みたいなはにかみ屋の彼は、どこか奥の方に戻っていった。
 慧と由貴のふたりで向き合って、質量と栄養のある本物の夕飯を食べたり、酒を飲んだり、音楽を聴いたりしている姿が、僕は好きだ。ふたりには僕の知らない歴史があって、寝室での営みがある。僕はまだこの家族の新参者で、そのことをうれしく思う。
 それでもときどき、日曜の夜に由貴が早めにベッドに入った後なんかに、慧はダイニングテーブルに肘をついて考え事をする。空になった酒の缶を眺めたりして、らしくない感傷的な顔をする。ため息をついて、窓の外を眺める。
「つばさと別れたの、やっぱりつらい?」と僕は訊いた。
「違うよ。失恋はいい酒の肴になるってだけさ。これも楽しんでるんだ」
「ふうん」
 寂しいのは僕かもしれなかった。〈見え隠れする都市〉。白檀の香りの上に見えない食材が転がる、あの素敵な店。店内の様子は鮮明に思い出せるけれど、時間が経つと、本物の質感は記憶から抜け落ちてしまう気がした。あの店の香りのデータは取ってあるから、自分の中で再現しようと思えば今すぐにできる。でも、そんな気にはなれなかった。
 北半球は次第に冷えて、もう秋も本番だ。
 つばさから慧宛てに手紙が来たのは、曇った、肌寒い日曜日の朝だった。

 ──あなたが虫の話をしたとき。

 短い時候の挨拶の後、手紙はそう始まっていた。
 僕はテーブルの隅、慧の正面に座っていて、彼がひとり見つめる紙面を直接は見られなかった。でも彼の瞳の反射光から、手紙の内容を簡単に復元できた。つばさの字はやはり中性的に整っていて、読みやすかった。

 ──あなたが虫の話をしたとき、覚えてますか? 人ではフェロモンは見つかっていない。ぼくたちは虫のように簡単に恋はできないんだって。あなたがそのことを少し残念そうに言ったのを、よく思い出します。でもあのとき、ぼくは本当に嬉しかったんです。だってそれは、ぼくたちの恋愛が化学物質以上のものだという証拠だから。
 ──初めて会ったときも言ったけれど、ぼくの心には性がありません。でも恋愛はしたかった。ぼくにとって、映画や漫画や小説で目にする恋愛模様はいつも不思議で、興味を惹かれる娯楽でした。登場人物たちに自分を重ねると、ひとりでは行けない、どこか遠いところに運んでもらえるような気がしたんです。人は生殖や結婚のシステムから、ロマンスというファンタジーを生み出した。ぼくは生殖にも結婚にも乗れないけれど、そのファンタジーだけは誰かと楽しんでみたかった。
 ──でも、性がないのに恋愛したいなんて、変ですよね。自分でもそう思っていました。セックスの快楽にも家族の安心にもつながらない、すぐに行き止まりの恋愛を求めるなんて。そんなの、曖昧で軽薄すぎると。自分でそう決めつけていたから、30歳を過ぎるまでなかなか踏み出せなかった。
 ──だからあなたが人のフェロモンを否定してくれたとき、ぼくは救われたんです。恋愛はやはり人の動物的本能を超えた文化的現象で、オッド・ロマンスはその最先端なんだって思えたから。しかも、あなたは恋愛を測ってくれた。測ることでむしろ、恋愛にははっきりとした輪郭はないんだと示してくれた。そのすべてに、ぼくは感謝しています。
 ──ぼくは、オッド・ロマンスを信じています。あなたと一緒に香りだけの料理を食べた夜の数々を信じています。

 僕はそこで慧の瞳を覗き込むのをやめた。言うまでもなく盗み読みは無粋だし、なにより彼の瞳が潤んで揺れるせいで、うまく文字が読めなくなったからだ。

 その日は昼から少しあたたかくなった。慧は僕を連れて、夕方の堤防を散歩した。
「俺以外に、3人いたんだってさ」
「3人?」
「つばさの、オッド・ロマンスの相手」
「そうだったんだ」
 虫が鳴いている。冬がじわじわと近づいている。でも、まだ盛んな繁殖の時期は終わっていないようだった。
「ショックだった?」
「いや、さすがだなと思った。まったく、敵わないよ」
 慧はコンクリートの階段に腰を下ろすと、ポケットから何かを取り出した。それは〈見え隠れする都市〉のマスクだった。彼は普段遣いのマスクを取ってそれに付け替えると、深く息を吸った。目を閉じて、何も言わなかった。
「君たちの恋愛を、僕は信じるよ」
 僕はトートバッグの中から彼の肩に触れた。
「僕には性がない。身体にも、心にも。だけど君たちを見ていて思ったんだ。もしかしたら、僕でも誰かと恋ができるかもしれないって。互いに触れなくても、顔を見なくても君たちは恋人だった。それなら、人間とAIの恋愛だっておかしくない。僕はそういう世界を信じてみたい」
 そう言いながら、僕はひとりの人物を思い浮かべていた。レストラン〈見え隠れする都市〉の店内に佇む人。それはつばさでも、慧でもない。
「お前は、片思いをしてるんじゃないか」
「これは──そうなのかな」
「そうさ。俺がお前をあの店に連れて行ったのは、由貴に言われたからだけじゃない。実は、牧田さんはお前の名付け親でもあるんだぜ」慧は僕を撫でた。「でも、どうして恋愛にこだわるんだ。友達じゃ駄目なのか」
「つばさと同じだよ。君たちが楽しんでいるものを、僕もやってみたいんだ。娯楽なんてそんなものでしょ」
「たしかにな」
 慧は立ち上がった。風が冷たくなってきた。そろそろ家に帰ろう。
「たしかに。そんなものだよな。そのくらいのものだから、いいんだ」
 その日、慧は吹っ切れたようだった。
 彼は家に帰ると、ちょうど帰宅した由貴に頭を下げた。
「ごめん。俺、また恋愛するかもしれない」
 由貴は呆れ顔で慧を見つめ、にやりと笑った。
「そんなにいいものなら、わたしも誰かとやってみようかな」

 ふたりが寝室に去った後、暗いダイニングの本棚の上で、僕はスリープ状態に入った。色々な想像が渦巻いた。これまで当然と思っていた枠組みが崩れて、無数の組み合わせが溢れ出してきた。
 AIと人。老人と若者。仮想世界と現実世界。オッド・ロマンスは空気が流れるように、どんな隙間にも入り込む。あらゆる出会いとあらゆる家族の隙間に。
 鼻先で、何か知らない香りがふっと開いた気がした。でも、すぐに消えてしまう。見えなくなってしまう。かと思うと、また香る。また消える。
 僕は闇の中にそれを探る。まだ不確かな可能性の芳香を。