第1章
東京通信工業株式会社設立
第1節 焼け跡からの出発
第二次大戦終盤の1945年。東京・丸の内の東京會舘で、戦時中の技術研究を目的とした「戦時研究会」が開かれていた。日本測定器株式会社の常務を務めていた井深大は、民間の技術者としてこの会議に出席していたが、海軍を代表して参加していた若き技術中尉の盛田昭夫にこの場で出会った。井深と盛田は13歳の年の差があったが、井深は物怖じせずはっきりと意見を言う盛田を大変気に入った。盛田も井深の人柄と技術者としての見識の深さに惹かれ、二人は親しく語り合うようになった。その後8月15日の終戦とともに「戦時研究会」は解散となり、以降、混乱の中で二人の連絡は途絶えてしまう。

電気炊飯器(東京通信研究所時代の1945年)
敗戦を受け井深は「戦後の再建のチャンスを掴み、情報収集がしやすい東京に戻ろう」と考えた。そこで、樋口晃※1や太刀川正三郎※2ら日本測定器時代の仲間と共に疎開先の長野県須坂から上京し、日本橋の白木屋百貨店の三階に十坪程度の部屋を借りた。戦争の被害で窓ガラスさえない粗末な一室からのスタートだったが、必要な物資を集めたり、かつての仲間が加わったりしているうちに段々と仕事場らしくなってきた。こうして1945年10月、井深たちは初めて「東京通信研究所」の看板を掲げたのだった。
焼け野原を前に、井深は「戦前からの大企業は必ず復興してくる。そのような大企業とまともに競うことはできない。大企業がやらないであろう研究や製品開発だけをやろう」と決意する。会社存続の手段として井深達が最初に始めたのは、戦災で壊れたラジオの修理と改造だった。短波が聞けるように改造したラジオは、戦後の世界情勢を知りたい人たちからの需要が高く、初めてのヒット商品となった。このことが朝日新聞のコラム「青鉛筆」でも紹介されると、ますます注文は増えていった。
終戦とともに愛知県の実家に戻っていた盛田は、偶然このコラムを目にし、すぐさま井深に手紙を書いた。高校時代の恩師から東京工業大学講師就任の誘いを受けていた盛田はこれを機に上京し、再び井深と盛田の交流が始まったのだった。
東京通信研究所時代の井深が次に手掛けたのは、電気炊飯器。日常生活に必要な商品をつくりたいという井深の想いにより考案されたものだが、木のお櫃(ひつ)にアルミ電極を貼り合わせただけの粗末なもので、うまくお米を炊くことはできず"失敗作第一号"となった。一方で、新たに開発した真空管電圧計が官庁に納入されるようになるなど、1945年末には仕事も少しずつ軌道に乗り始めた。
- ※1 樋口晃 ソニー副社長。東通工の設立に参画、技術部門の取締役に就任。本社工場長、製造部長等を歴任
- ※2 太刀川正三郎 ソニー常務。東通工の設立に参画、総務・経理部門の取締役に就任。営業部長、東通工商事の専務取締役等を歴任
第2節 自由闊達にして愉快なる理想工場

東京通信工業株式会社の看板

(左から)盛田昭夫と井深大(1947年)
1946年に入り、主に官庁からの真空管電圧計をはじめとする需要は増え続けていた。かねて共同で新会社をつくることについて話していた井深と盛田は、組織と陣容を整え、有能な人材を募集しやすくするために株式会社を設立する準備を開始した。
井深は盛田をすぐに仲間に引き入れたかったが、越えなければならないハードルがあった。一つは、当時盛田が東京工業大学の講師を務めていたことだった。だが内心、講師の仕事よりも、新しい会社で思う存分働きたいと思っていた盛田は公職追放令が出されたことを機に講師を辞任。新たな挑戦への期待と喜びを胸に、井深たちに合流した。
しかし一番の課題は、他にあった。盛田の生家は江戸時代から続く酒造業を営んでおり、長男の盛田は家業を継がなければならない立場にあった。盛田の父・久左ェ門を説得するために、盛田自身と井深、そして井深の義父である前田多門※3は夜行列車に乗り込み、愛知県の小鈴谷(現 常滑市)へ向かった。古い客車の窓は割れ、吹きさらしの座席で煤にまみれながらの行程だった。
久左ェ門に会うと、井深は新会社にかける夢について語り始めた。そして、盛田が絶対に欠かせない存在であることを熱弁した。井深は内心、久左ェ門が首を縦に振ってはくれないだろうと思っていた。だが、久左ェ門の返事は意外なものだった。「私は、昭夫が後継として、家業を続けてくれることをずっと望んでいた。しかし、昭夫が自己を磨くため、あるいは自分の能力を活用するために他のことをしたいと言うのなら、そうするべきだと思う」。続けて、笑いながら息子の顔を見て「お前は自分の一番好きなことをやりなさい」と告げた。3人は驚きと安堵が入り混じった表情で喜び合った。こうして、晴れて盛田も加わり、新会社の設立に向けて動き出したのだった。
新会社の社長には前田多門になってもらうことにした。問題は資金である。そこで前田は学生時代からの親友で財界にも顔の広い田島道治※4のもとへ相談に行った。愛知県出身の田島が盛田家のことを良く知っていたこともあり、銀行との交渉を快く引き受けてくれるとともに、相談役として監督してくれることになった。田島は早速、帝国銀行(現 三井住友銀行)の会長をしていた万代順四郎※5のところに相談に行った。万代は新会社を援助することを即決してくれ、これで資金面での見通しも立った。ここに盛田の父久左ェ門と、井深が前職時代に世話になった増谷麟※6を加え、政財界の大物である5人に"お目付役"を担ってもらうことになった。
そして、1946年5月7日、資本金19万円、総勢20名余りの小さな会社「東京通信工業株式会社」(以下 東通工)は設立式を迎えた。井深は次のように語った。「大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社ではできないことをやり、技術の力をもって祖国復興に役立てよう。」
潤沢な資金も機械設備もない。だが自分たちには人材と技術がある。何とかして人のやらないことをやろう──こうして東通工は船出を迎えたのだった。
井深は東通工の設立にあたり、「東京通信工業株式会社 設立趣意書」を自ら筆を執って起草していた。経営者であり技術者でもあった井深は、その両方の立場から何日もかかって設立趣意書の構想をまとめ上げた。これからの日本の行方や世界の歩みはどうなるか、真の勤労意欲とは何か、研究・技術者の心のあり方とは、そのための施設はどうするか……。そして辿り着いた結論は「世界に通用する商品を生み出す源とは、人と人との円滑なつながりと独自の技術力の開発」ということだった。この想いを井深は設立趣意書の前文にこう記している。
各人は、その規模がいかに小さくとも、その人的結合の緊密さと確固たる技術をもって行えば、いかなる荒波をも押し切れる自信と大きな希望を持って出発した。
また、「会社創立の目的」の冒頭にはこう書かれている。
- 一、 真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
- 一、日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
技術者がその技能を最大限に発揮することのできる"自由闊達にして愉快なる理想工場"を建設し、技術を通じて文化に貢献するという創業の精神は、革新的な技術や新製品を生み出す原動力となり、その後も時代を超えて受け継がれて来たソニーの原点であると言える。
- ※3 前田多門 井深大の義父、東通工初代社長、元文部大臣
- ※4 田島道治 東通工相談役(のちに第二代会長)、元宮内庁長官
- ※5 万代順四郎 東通工相談役(のちに初代会長)、元帝国銀行会長
- ※6 増谷麟 東通工監査役、元PCL 社長
COLUMN
ソニーのDNA
ソニーの社会貢献活動の基礎となった
設立趣意書
井深大は1991年の社内報インタビューで、社会貢献について「私どもが会社をこしらえた時に、設立趣意書の中に書いたのは、いつか会社が軌道に乗ったら、自分たちのやっている仕事以外で社会に貢献したいということです。40 年以上も前から、社会への貢献を企業理念としてうたってきたんです。」と語っている。1950 年代、視聴覚教育のために全国の小中学校がテープレコーダーを導入したことで会社は急成長した。その恩返しの意味もこめて、井深は1959 年に「ソニー理科教育振興資金」を創設し、先進的な理科教育を行う小学校への支援を開始。2 年後には中学校にも対象を広げ、この取り組みは現在も「ソニー教育財団」として続いている。また井深は障がい者の社会参加にも早くから取り組み、1973年に社会福祉法人「希望の家」、1978 年には後に特例子会社となる「ソニー・太陽株式会社」を設立。障がい者の就労は社会福祉の延長が多かった頃だが、井深は「障がい者だからという特権なしの厳しさで、健丈者※の仕事よりも優れたものを、という信念をもって」と語り、人として活躍する機会を通じての自立や社会参加を後押しした。この精神は、今もソニーの障がい者雇用の基本理念として受け継がれている。
- ※ 障がいがなく「丈夫」な人はいるが、「常に」健康な人はいないという、井深の考え方を踏まえて表記したもの。

第3節 苦心の資金繰り

電気ざぶとん(1946年)
東通工設立の翌日から、夜遅くまで仕事をする日々が続いた。だが、発足して1カ月と経たないうちに白木屋の借間では手狭になってきた。
その頃、逓信省(当時)から真空管電圧計の注文を50台もらった。真空管が手に入らないので、旧軍の放出品のうわさを頼りに関東全域まで足を伸ばすことにした。だが、規格や品質も一定ではなく、半分使えれば良いという状況だった。組み立てた製品は逓信省の検査を受けなければならないが、自社には場所も設備もない。そこで、逓信省付属の研究所に検査を頼むことになり、日本橋から東五反田の研究所まで、社員が一人一台ずつ両手に抱えてはこびこんだ。はんだごてやドライバーなど必要な工具は手作り、配線部品も電話線から取りはずすなどして使った。
さらに苦労は続く。間借りしていた白木屋から借りていた場所を明け渡してほしいという要請があったのだ。井深と盛田は物件探しに奔走することになったが、白木屋に代わる場所はなかなか見つからない。伝手を頼ってようやく見つけたのが、吉祥寺の工場だった。ただこれだけでは狭いので、三鷹台にある工場の一部を貸してもらってここも工場とした。一方、事務所の方は戦後の混乱の中、移転先がなかなか見つからない日々が続いた。
そんな中、最も苦心していたのは資金調達だった。万代が会長を務める帝国銀行の審査部長に面会を求めたが、飛び込み営業と勘違いされ居留守を使われてしまうこともあった。1946年6月には銀行からお金を借りるために盛田が万代のもとを訪ねたり、同年10月には資本金を60万円に増資するために、井深の古くからの知り合いで作家の野村胡堂※7氏に出資してもらったりもした。これは設立当初の資金不足という理由に加え、1946年2月に出された金融緊急措置令の影響も大きかった。戦後のインフレを抑制するために、銀行預金の引き出し制限と、旧紙幣の流通停止を伴って新しい紙幣、「新円」への切り替えを実施するものであった。官公庁から東通工への支払い代金は引き出しが制限されたので、消費者向けの商品で「新円」をかせぐ必要が出てきた。
そこで新円かせぎのため井深が考案したユニークな東通工製品が"電気ざぶとん"だった。2枚の和紙の間に細いニクロム線を格子状に入れて糊付けし、コードをつけたものだ。繊維製品も手に入らないので、外側のカバーは本の表紙などに使うレザークロスを買ってきて代用し、社員の家族総出でミシンをかけたり、コードをかがり縫いしたりして製作した。さすがに東通工の名前を付けるのは気が引けた井深は"銀座ネッスル(熱する)商会"の名義で売り出したが、物がない時代だけに売れに売れた。しかし、毛布を焦がしたり、布団に焦げ跡ができたりといった苦情も多く、当時の電力供給事情から電圧が上がる夜中は火事を起こさないかと心配で、井深は安心して眠れないほどだった。
一方でまともな商品もあった。焼け跡に転がっている鉄を拾ってきて製作したレコードプレーヤーの部品は音がいいと評判になり、「クリア・ヴォイス」の商品名で量産を開始した。
売上は軌道に乗ってきたものの、事務所の移転先は長らく見つかっていなかった。立ち退き期限間際に、盛田の親類として入社していた岩間和夫の叔父の紹介で10坪ほどの場所が確保でき、銀座の徳屋ビルに引っ越すこととなった。
- ※7 野村胡堂『銭形平次捕物控』の作者
第4節 品川・御殿山へ
銀座に事務所を移転して間もなく、NHKから新しい仕事の依頼がきた。当時、日本中の通信施設は壊滅状態で、NHKの放送施設もかなりの打撃を受けていた。戦後の復興に向け、スタジオを修理するとともに、日本各地に放送のための無線中継の受信所をつくって全国ネットを整備することが急務だったのだ。他の会社と比べて、臨機応変な設計変更への対応や費用についても融通が効くというのが東通工に依頼があった理由だった。
こうして従来の官需に加え、NHKの仕事で利益の確保も目処がたった矢先、またもや立ち退きを迫られてしまう。今度は三鷹台の工場。持ち主が自分で仕事を始めるというのが理由だった。だが考えてみれば、工場と事務所が3カ所に分かれていると何かと不便な上、経費もかかる。1946年の暮れ、井深と盛田は寒空の下で物件を探しながら「皆が一緒に働ける工場があればどんなにうれしいことだろう」と語り合った。こうしてやっとの思いで見つけたのが、品川・御殿山にある会社が使っていた古い工場。建物は粗末で、床のあちこちには穴が開き、天井の穴から星が見えるほどだったが「やっと安住の地を見つけた」と井深と盛田は胸を撫で下ろした。
1947年1月、東通工の2つの工場と事務所は御殿山に集結した。社員を前に井深はこう述べた。「このように物の不自由な時代である。闇の商売でもやれば、もっと儲かるかもしれない。そして皆さんにも、もっと良い待遇ができるかもしれない。しかし自分たちはそういうことをやりたくない。とにかく世の中のためになる新しい技術を拓くということで苦労してやっていきたいと思っている。皆さんも一所懸命やっていただきたい」。これは井深の想いであり、同時に一緒に働いている者全員の気持ちでもあった。
久しぶりに全社員が一か所に集まって仕事ができるようになった喜びを感じながら、東通工の社員たちは人のやらないことに取り組み、さまざまな製品を開発していった。その一つが"パワーメガホン"。真空管の代わりにカーボンマイクを使った拡声器である。国会議員が街頭演説に使用するなど、多方面で売れた製品となった。この他にも電信の授受を容易にした"2号調音器"や、発売には至らなかったものの紙テープに電信を記録する「鍵盤模写電信機(ヘルシュライバー)」などもあった。
そんなある日、NHKから新たに大きな仕事の依頼があった。「テーブル」と呼ばれる音声調整卓を作り直してほしいという注文だった。米軍は日本に進駐してから進駐軍放送を流していたが、アメリカの放送方式に合わせるためにはNHK内のスタジオの改造が必要だったのだ。1947年6月、当時内幸町にあったNHK東京放送会館の第九スタジオから調整卓やラックを東通工へ運び出し、改修作業を始めた。仕上がりは上々で、これを機にNHKから続々と新しい仕事の依頼が来るようになった。その後も、NHKの東京スタジオや大阪・東京の進駐軍向け放送局の改修工事など、全国にあるNHKの主要放送局のほとんどの工事を東通工が請け負うようになった。以前から東通工の仕事ぶりには定評があったが、輪をかけて忙しくなり、泊まり込みで仕事をすることもしばしばだった。このNHKの仕事を通じて調整卓を数多く手掛け、井深たちがオーディオ技術について学んだことは、東通工にとって大きな飛躍の足掛かりとなっていく。
一方、仕事が増えたとはいえ、銀行は気前よくお金を貸してはくれない。売掛金の回収に苦心するなど、資金繰りの悩みは尽きなかった。1947年の暮れに、逓信省から二重平衡装置100台で80万円という大型注文をもらったが、問題は"いつお金になるか"。この入金が給料日の12月25日に間に合えば、12月の給料とボーナスに充てることができるからだ。工場が一丸となって仕事に取り組んで23日に納品したが、10種類以上の各所承認印をもらう必要があり、入金まで半月はかかる。だが年末ということもあり翌24日に何とか融通してもらい、無事に社員全員に給料とボーナスを支給することができた。その後も"勘定合って銭足らず"の経営が続いたが、1947年10月の決算では353万円の売上で5万円の利益を計上でき、62名の株主に初めて配当を行った。
製品の種類が増えるにつれて工場もだんだん手狭になってきたこともあり、1949年に御殿山の台地に木造2階建ての通称「山の上工場」を新設した。苦しい経営が続いただけに、新工場を見て井深は「自分の家ができあがったようだ」と喜んだ。工場の完成を祝ってのレセプションには、万代や前田、資金を援助してくれた野村胡堂氏など、取引先も含め200名が集まった。

御殿山の工場前で(左から)樋口、岩間、井深、盛田(1947年)

山の上工場(1949年)
COLUMN
ソニーのDNA
社員の楽しみは昼食
食料不足の時代に米飯を会社で提供してくれるところなど滅多になく、社員の何よりの楽しみは昼食だった。当時の拠点は銀座の事務所と吉祥寺・三鷹台の工場の3 カ所に分かれていたため、銀座の事務所でごはんを炊いてリュックに背負い、混雑した電車に揺られて工場に運ばれた。お昼が近くなると、工場の社員は家から持参したおかずを傍らに置き、窓から顔を出して「昼飯はまだか」と待ちわびたという。社員を第一に考えたこの昼食のおかげで、東通工社内の結束も強くなっていった。

創立記念行事で神奈川県三崎へ社員旅行(1947年)