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第2章
日本初のテープレコーダー

第1節 これだよ、我々のやるものは

井深はかねて官庁や放送局など与えられた仕様書に基づいて作る商品とは別に、自ら市場を創造するようなものづくりをやってみたいと思っていた。かたや盛田は営業的な観点から、NHK以外にも販路を広げられる商品はないかと考えていた。そんな二人が目をつけたのがワイヤーレコーダー。しかし、技術的問題や将来性などから結局は諦めざるを得なかった。
二人が"紙テープで音が出る機械"のことを聞いたのはその頃だった。出入りしていたNHKの放送会館で初めてテープレコーダーの音を聴かせてもらうと、ワイヤーレコーダーとは比較にならないくらい音質が良い。「これだよ、我々のやるものは。これは、これからの商品だ。テープでやってみよう」。
どんなことがあってもテープレコーダーをやりたい──そう決心した井深と盛田は、無理を言ってGHQの将校にテープレコーダーを御殿山まで持ってきてもらった。そして「実はテープレコーダーというものをやりたいのだが、30万円ばかり出してくれないか……」と、経理の太刀川らにテープレコーダーの音を聴かせながら説得し、何とか了解を取り付けたのだった。

第2節 日本初のテープレコーダーG型完成

テープレコーダーは日本国内にも数台しかない貴重品である。数少ない文献をあたったが「プラスチックテープに磁気材料を塗布したテープレコーダー」という記述しか見つからない。テープのベースを何にするか、音声を記録する磁気材料にはどういうものが適しているのかなど、何もかもが手探りの状態だった。磁気材料となるはずの粉には磁性があれば良いというので、まずOPマグネット(フェライト系磁石)を試してみることにした。だが当時の技術では、ザーザーというノイズが出るばかりで音は出なかった。この実験で磁気材料にはOPマグネットほど強い磁石はいらないとわかり、辿り着いたのがシュウ酸第二鉄。これを焼くとマグネ(酸化第二鉄)ができると書籍に書いてあったのだが、終戦後の物資不足でそんな薬品は簡単には見つからない。盛田と木原信敏は神田の薬品問屋街を探し回り、やっと一軒だけ売っている店を見つけ、早速実験を開始した。木原は炊事場からフライパンを借りてきて、シュウ酸第二鉄をしゃもじで炒り、茶色か黒色になるかまで焼いて、水を入れて蒸発を止める。茶色が酸化第二鉄、黒が四酸化鉄である。色の頃合いを見極める木原の名人芸により、粉が出来上がった。
これをどうベース材料に塗るか。試行錯誤の日々が始まった。スプレーガンを使って粉を吹き付けたり、吹き付けるテープの幅を変えたり、"おしろい"のメーカーに細かい粉をつくる方法の教えを請うたり……。テープのベースとなる材料としてセロハンなども試したが、紙が最も適していることを突き止め、これも一から開発を依頼した。このほかにも、高周波バイアス法の特許権を取得することにも取り組んだ。こうして磁性粉やテープの研究を重ねながら、さまざまな課題を解決していった。そこで木原は簡単な原理試作装置をつくり、テープを走らせてみることにした。「本日は晴天なり」と言っては、手で巻き戻し、「うん、聞こえるなあ」という作業を繰り返す。音が出ることが分かったことは大きな一歩だった。
原理試作を終えた木原はNHKに実物を確認に行くこととなった。そこで見た構造を参考に、他の技術者と協力しながら試行錯誤の末、一週間で「テープレコーダー試作1号機」を作り上げた。1949年9月のことだった。国産初のテープレコーダー誕生に向けて着々と歩を進め、1950年1月には、1時間の録音が可能な据え置き型の業務用G型が完成した。
これらを発売するにあたって、東通工では「テープコーダー(Tapecorder)」という商標を登録。同時に東通工製のテープは、音を意味する"ソニック"から「ソニ・テープ(SONI-TAPE)」と名付けられた。そして、1950年5月、G型を発売。価格は160,000円、重さは35kgだった。井深がテープレコーダーに着目してから約1年。苦労の日々が報われる日が来たのである。
しかしG型は、発売から数カ月後に一台売れた以外全く売れなかった。一方で、1950年11月に国会図書館で展示会が開かれ、来臨された皇后陛下にテープレコーダーに録音されたご自身の声をお聴かせするという出来事もあった。

COLUMN
ソニーのDNA

手強い学生、大賀典雄

1950 年、音楽学校の学生が井深のもとを訪ねた。それは、後にソニー会長兼CEO となる大賀典雄。東京芸大の学生だった大賀は海外のいろいろな文献を読んでおり、外国製のテープレコーダーについてよく知っていた。井深にアンプやテープの性能について色々と質問した上、テープレコーダーはこうあるべきではないかという意見をした。大賀は「音楽学校にテープレコーダーは必需品です。バレリーナが鏡を見てレッスンするように、音楽家は鏡の代わりにテープレコーダーを使って練習しなくてはなりません」と語り、G 型が発売された後、芸大で使う際に改良すべき箇所を挙げて、仕様書を東通工に提出していた。この仕様書の打ち合わせのために、大賀は井深と再び面会した。「テープレコーダーの知識は玄人以上の本物だ」と考えた井深は、博識で物怖じしない大賀を気に入り、それ以来大賀は東通工の無給の"アドバイザー"として出入りするようになっていった。

第3節 普及型1号機H型発売

G型の販売が思うようにいかない中、盛田は、G型の販売を担っていた代理店の八雲産業の社員である倉橋正雄とともにこれまでの販売方法を見直すことにした。販売不振の理由の一つがテープレコーダーの操作の難しさだった。リールからリールへテープを渡すのでさえ当時としては特殊な技が必要で、録音中にテープが絡むなどのトラブルも起きていた。井深や盛田らが技術的な興味を持って開発したとしても、お客様にとって使い方の難しいものや商品の価値が正しく伝わっていないと、いくら良いものでも購入にはつながらない。そこで需要を喚起するために使い方の勉強を始めることにした。偶然、米国製のテープレコーダーについていたパンフレットで『テープレコーダーの999の使い方』という小冊子が手に入った。航空機内や美容院などいろいろな使い方が書いてあり、盛田と倉橋は連日これを研究し、テープレコーダーの使途の広さを実感していった。
それと並行して、機構の改良もなされていった。G型は大きく重たい上に値段も高い。井深や盛田たちは学校や一般家庭に普及させるための議論を重ねた。「G型のようにあんな大きなものではいかん。もっとポータブルなものを作れば必ず売れるよ」。井深のこの言葉を受け、木原は新たな構想を練り始めた。井深に「完成しないうちは、帰ってきちゃいかん」と、電話や来客に煩わされない熱海の貸別荘に缶詰めにされながら木原たちは開発を進め、本格的普及型テープレコーダーH型が出来上がった。このH型は1951年3月に発売を迎えた。価格は84,000円、重さはG型の半分以下となる13kg で、ソニーが初めて工業デザイナーである柳宗理氏に依頼し、デザインされたものだった。
H型の完成と同時に、学校向けの需要が拡大していった。これには倉橋たちのテープレコーダーの使い方の普及・啓発活動が奏功していた。当時、日本ではGHQの政策の一環として、視聴覚教育が盛んになっていた。それに東通工も乗り、ラジオ放送をテープレコーダーに録音し、学校のカリキュラムに合わせ使って貰おうと考えたのだ。倉橋たちは文部省(現 文部科学省)や学校の先生と一緒になって、どうしたら最も有効な使い方ができるかを考えた。しばらくして倉橋は盛田に呼ばれた。「あなたのやっていることは大変いいことだ。しかし、ただ勉強しているだけではもったいない。全国を回って、今まで勉強してきたことを話してみないか」。倉橋は、東通工が立ち上げた「録音教育研究会」の常務理事として、全国の教育現場で"視聴覚教育のあり方"というテーマで講演をして回ることになった。商品を売り込むのではなく、視聴覚教育の重要性を説き、その際の録音機の使用法を説明した。その結果、講演の依頼が次々に来るようになり、瞬く間にH型は全国の学校の必需品となっていった。
テープレコーダー自体が新しい商品だったため、ユーザーがその扱いに慣れておらず、故障してしまうこともあった。当時の工場は300人足らずの規模で、生産も追いつかないほどだったが、工場長の樋口は社内の優秀な人材を12人ほど選抜し、東京・大阪・名古屋・札幌・広島・福岡に駐在させ、部品を持たせて定期的にその地域の巡回サービスを始めた。商品が壊れてからではサービスではないという考えのもとに、アフターサービスを徹底させたのだった。また運搬によるダメージを防ぐため段ボールではなく木箱に入れるなど梱包にもこだわった。これが学校間で評判となり、テープレコーダーの普及に拍車をかけ、東通工の信用に結びついていった。
また、量産の経験が乏しい東通工にとってライン生産方式の勉強をする必要が出てきた。早川電機(現 シャープ)の生産ラインを見学できることになり、工場長の樋口、製造部長の岩間、営業部長の笠原功一が参加した。配線ミスをできるだけ防ぐことや、工程の流れに対し一人何点くらい受け持つことができるかなどをそれぞれの立場で学んだ。加えて、早川電機からも工場長が東通工を訪れ、安全面の指摘などいろいろと教えてもらうことができた。

第4節 販売の教訓

販売が伸びるにつれて全国的な販売網の整備が課題になってきた。既存の販売代理店に加え、新たに見つけたのがピアノを全国の学校に納めていた日本楽器(現ヤマハ)だった。販売は日本楽器製の商品にかぎっていたが、テープレコーダーが音楽教育に役立つと説得し取り扱ってもらえるようになった。
こうして盛田たちの思惑通り全国販売が展開されていったが、ある日、盛田は九州でテープレコーダーがよく売れることに気付いた。これは炭鉱ブームによって景気がよかったからだが、次第に石炭産業が衰退して急に売れなくなってしまった。それまで九州の売上に頼っていた盛田たちは大慌てだったが、他の地域の売上を少しずつ増やしていくことで、何とか凌ぐことができた。「もしも九州だけに頼っていたら、東通工は行き詰っていたかもしれない。マーケットは広いに越したことはない。日本だけでは危ない。日本より世界中に市場があるほうが安全だ。今はまだ、そんな余裕はないが、いずれは海外にマーケットを広げなくては……」と盛田は考えた。企業にとってマーケットが大きい方が安全だという考えは簡単明瞭なように思えるが、販売経験の乏しい盛田たちにとっては非常に貴重な教訓となった。
もう一つ盛田たちは教訓を得た。マーケットを一企業が独占しているのでは市場は大きくならないということだ。これまで東通工がテープレコーダーを寡占的に販売できたのは、高周波バイアス法の特許による恩恵が大きかった。しかし、特許が切れる頃になって松下電器(現 パナソニック)がテープレコーダーに参入するという噂が出てきた。「あんな大きな会社がテープレコーダーを始めると、脅威以外の何物でもない」。盛田はそう考えたが、実際に松下がテープレコーダーを販売し始めると、予想に反して東通工の売上も伸びた。たくさんの企業が参入した方が市場は活性化する。マーケットは一社で作り上げるものではないと確信したのだった。その上で東通工の商品力が他社より優れていることが必須となる。常に他社よりも先に着手し、努力と経験を積み重ねれば価格面でも対抗できる──これさえ遂行していれば、競争相手が参入してきても恐れることはなく、むしろ自分たちのビジネスも成長できるのだ、と。
この二つの教訓を得て、次第に盛田は"販売"や"マーケット"ということが分かってきた。

第5節 仙台工場開設

1954年5月、東北では仙台工場が開設された。当初はオイルベアリングやマグネットの製造も行っていたものの、採算の目処が立つフェライト等の磁性材料に製造品目を絞ることとなった。
東通工と東北地方との関わりは1951年に遡る。テープレコーダーのヘッドの素材に、高周波特性の良いフェライトを応用できると着目した井深たちは、いち早くフェライトの研究に専念していた東北大学の岡村俊彦教授との共同研究を始めた。そしてフェライトヘッドを初めて使ったH型テープレコーダーを同年発売すると、次にP型やR型など後継機種の生産増加につながっていった。
テープレコーダーの売上が順調に伸びていた1953年。宮城県は、仙台市と塩竈市を結ぶ仙塩工業地帯構想を打ち出し、工場誘致を積極的に行っていた。東通工は増産により御殿山の本社工場が手狭になったこともあり、東北大学が近く、電力が潤沢に使える仙台への進出を決めたのだった。こうして仙台工場は27名の社員で稼働を開始した。