ソニー ホームページ

第3章
トランジスタラジオの開発

第1節 トランジスタ製造の特許取得

1952年3月、テープレコーダーの販売先が教育関係にばかり集中するなか、井深は市場開拓のヒントを求めて米国へ出向いた。初めて海外に出た井深は、車が街を埋め尽くし夜中まで煌々と照明が灯るニューヨークの様子に驚くばかりだった。米国の事情に詳しい山田志道の案内のもと調査を行うも、米国でもコンスーマー向けのテープレコーダーはそれほど普及していないようだった。
それでも様々な刺激を得ることができた米国滞在中、思いもしない話が井深のもとに舞い込んできた。「ベル研究所の親会社であるウエスタン・エレクトリック社(以下 WE社)がトランジスタの特許使用を望む会社にその特許を開示してもいいと言っているが、興味はないか」という話だ。トランジスタは1948年にベル研究所で発表され、当時井深は岩間とこの件について話したことがあった。井深は「将来性はないな」と思っていたこともあり、トランジスタは今回の渡米の目的には全く入っていなかった。それに、特許料が2万5,000ドル(当時約900万円)というのも、東通工にとっては負担が大き過ぎる。
一方で東通工はその頃、社員数が急激に増えていた。さらに冶金学、化学、機械工学などを専門とする多彩な大学出の技術者も揃っていた。彼らの技術力を集結させ、興味を持って打ち込める仕事はないか。井深は閃いた。「トランジスタをやってみよう。それには、技術者がたくさんいるに違いない。研究者も必要になるだろう。それに、東通工の社員は新しいことに挑戦するのが大好きだ。これは最適じゃないか。」
井深の頼みを聞いて山田は、WE社と何度もコンタクトを取ったが、なかなかアポイントメントが取れず、この件は山田に託し井深は帰国の途に就いた。
帰国後すぐに井深は、この決断を盛田や笠原に伝え賛同を得ると、通産省(当時)にトランジスタ製造の許可を求めに行った。しかし「町工場に毛の生えた程度の東通工で、難しいトランジスタができる訳がない」とつれない返事だった。その頃、東芝、三菱、日立といった大企業も米国から技術を供与してもらいトランジスタ開発に乗り出していて、東通工が製造のノウハウを学ばず特許使用権だけを買うというのは無謀なことというのが、通産省の見解だった。
一方米国では、井深がニューヨークを離れた後も山田が足繁くWE社に通って東通工について説明し、関係を築いていった。こうした努力がついに実を結び、米国から井深の所に特許使用許諾の手紙が来たのだ。WE社では、東通工がどこの会社とも技術提携をせず、またアドバイスも受けずに独力で磁気テープを開発したことに感心し、トランジスタの特許を使わせても大丈夫だろうと判断したらしい。
1953年8月、欧米を視察することになっていた盛田が、このWE社との契約を任されることになった。初めての海外だった盛田は山田とともにWE社へ向かうと、独力でテープレコーダーを完成させた事実を示し、東通工が信頼に足る企業であることを説明した。

  • ※  山田志道 東通工の米ニューヨーク事務所代表。在米35年余、東通工の米国進出初期に大きく貢献。

第2節 『岩間レポート』

通産省の許可が下り次第正式に契約することにして、盛田はWE社と仮調印を済ませた。
そして日本に帰ってから役立つようにと、トランジスタに関わる色々な資料を集めて回った。渡米の目的を無事果たし、盛田は次なる視察地ヨーロッパへ向かった。
盛田が感銘を受けたのはオランダのアイントホーフェンだ。皆が自転車に乗っている姿に郷愁さえ覚える、農業国の小さな町。しかし、そこにあるフィリップス本社の大きさに、盛田は驚嘆した。工業的なバックグラウンドのなかったこの土地で、創業者のフィリップス博士は世界のエレクトロニクス産業界に名を響かせるフィリップス王国を築き上げたのだ。
「フィリップス博士にできたことが、我々にできないはずはない。自分たちにも、チャンスがあるはずだ」。盛田は急に勇気が湧いてきた。そして、オランダから井深に手紙を出した。「フィリップス社を見て非常に勇気が湧いた。わが社の商品を世界中に広めるチャンスがあるという決心、決意を持つに至った」と。
3カ月の出張を終え日本に帰った盛田は、さっそく「トランジスタを使って何かやりましょう」と井深に話した。「ラジオをやろう」。これが、井深が出した答えであった。「トランジスタを作るからには、広く誰でも買ってくれる大衆品を狙わなくては意味がない。それは、ラジオだ。難しくても最初からラジオを狙おうじゃないか」
しかし、米国でもまだコンスーマー向けには補聴器などにしか利用できない、低い周波数のトランジスタしか作られていなかった。ラジオに使うには高周波トランジスタを開発しなければならない。それでも井深は強気だった。「いや、大丈夫だ。必ずラジオ用のものができるよ」。この言葉で、東通工の技術者たちの挑戦が始まった。
社内ではすぐに精鋭たちが集められ、トランジスタ開発部隊が編成された。リーダーには、テープレコーダーの製造部長をやっていた岩間が志願し、彼のもとに各部署から腕に自信のある者たちが集まった。まずはトランジスタそのものを作る必要がある。しかし、東通工には、その製造ノウハウどころか、ほとんど資料と言えるものさえない。唯一の文献は、盛田が米国から持ち帰ってきた『トランジスタ・テクノロジー』という本だけだった。1954年、新しい年が明けるとすぐに、岩間はトランジスタ研究のため米国へと旅立っていった。
当時の岩間が持っていたトランジスタの知識は、『トランジスタ・テクノロジー』を読むことで得た製造にまつわる基礎的な部分だけ。とにかく米国で、できる限りの情報を集めて帰らなくてはならない。WE社からは、製造装置の仕様書等の資料はもらえない。しかし、工場の中は好意的に見せてくれた。岩間は工場見学の際に、重要と思われる装置を前にしては、慣れない英語を駆使して質問して回り、その印象や答えてもらったことなどをレポートにまとめて、東京に送った。その場で装置のスケッチをノートにとることは禁じられていたので、ホテルに帰ってから一所懸命見たこと聞いたことを思い出しながら、レポートにしたためた。最初がレポート用紙9枚……2月19日が8枚、2月21日9枚……4月7日5枚、4月9日5枚、4月13日8枚、4月15日4枚と、驚くほどの量だ。
東京では、定期便のように送られてくる岩間のレポートと『トランジスタ・テクノロジー』を参考にして、岩間が帰って来るまでにトランジスタを完成させようと目標を定めた。
まずやらなくてはいけないのが、トランジスタ製造のための工作機械を作ることだ。その当時、半導体の製造設備といっても既製品などある訳がない。『トランジスタ・テクノロジー』を読んでも、当然製造装置の図面は載っていない。何もかも、一つひとつ自分たちで図面を引いてつくるよりほかなかった。東通工では装置も足りないため、社外の協力工場に加工を依頼し、水素でゲルマニウムを還元する酸化ゲルマニウム還元装置、その純度を上げるためのゾーン精製装置、切断機(スライシングマシン)と、一連の装置を作り上げていった。また、ゲルマニウムの結晶をスライスする切断機は、盛田が米国で調達したダイヤモンド砥石と、工作機械屋で見つけた、中古の赤サビだらけのフライス盤を改造して作り上げた。

初めて東通工のトランジスタが発振したのは、岩間が米国から帰って来る一週間前だった。測定に使う装置は手作り。「こんなに早くトランジスタができるとは……」。針が振れた時の皆の喜びは、言葉にできないほどだった。
そして、岩間が米国から帰国したのと前後して、基礎研究の段階を終え、いよいよラジオ用のトランジスタ量産が目標となってきた。ラジオ用にはもっと高周波のトランジスタを目指さなくてはならない。そのため、これまでは人の勘に頼っていた結晶の引き上げ、ラッピングといった操作をより正確にするため、それぞれの装置も我流で作り上げた。
6月には初めてトランジスタラジオの試作を始めるまでになっていた。10月になると、日本で初めてのトランジスタ、ゲルマニウムダイオードの披露会を東京會舘で行った。
そうこうしているうちに、東通工にとって残念なニュースが米国から届いた。1954年末、米国リージェンシー社が世界初のトランジスタを使ったラジオを発表、クリスマスシーズンを目指して発売を始めたのだ。
世界初を目指してこれまで頑張ってきたので落胆は大きかったが、これが一つの契機となり、トランジスタ自体の開発や回路設計にもさらに力を入れて取り組んでいった。成果は、翌年1月に早くも現れた。東通工製のトランジスタを使ったラジオから初めて音が出たのだ。TR-52型の試作の成功であった。
1955年3月、市場調査と商談のため海外に向かう盛田が、サンプルとしてこのラジオを持参することになった。この頃、渡米する者が増えるに従って、「東通工」の発音の難しさが問題になっていた。発音できないようではビジネスに支障が出る。「いい名前を考えよう」と、なるべく簡単で、どこの国の言葉でも大体同じように読めて、発音できる名前を模索した。
ローマ字で2文字というのは難しく、また3文字はすでに色々な組み合わせが他社で使われている。東通工の頭文字をとったTKKは鉄道会社と混乱してしまう。結局4文字程度がよいだろうとなった。そこで、色々と考えた結果、音「SOUND」や「SONIC」の語源となったラテン語の「SONUS(ソヌス)」と、小さいとか坊やという意味の「SONNY」——自分たちの会社は非常に小さいが、はつらつとした若者の集まりである——を掛け合わせて作った造語である「SONY」に決まった。さっそく盛田は「SONY」のブランドを付けた試作機を持って、米国に渡った。
すると、驚くような申し出があった。米国の大きな時計会社が「SONYではなく当社のブランドを付ける」という条件で10万台のオーダーを提示してきたのだ。「我々は50年も続いてきた有名な会社。わが社のブランドを利用しない手はない。」というのが発注側の論理だった。日本からは「契約してこい」との指示があったが、盛田の心は決まっていた。日本へ電話をかけ「絶対に向こうのブランドを付けるべきではない。せっかくSONYという名を付けたんだ。我々はこれでいこうじゃないか。第一、10万台の注文をもらったって、現在の東通工の設備ではできやしないじゃないか」と説得。申し出を断り、「いま我が社は、50年後に向けて一歩を踏み出したところだ。50年後には、あなたの会社に負けないくらいSONYを有名にしてみせます」と大見得を切り、盛田は帰路に就いた。目先の利益よりも、生まれて間もないSONYブランドを守ったのだった。
この時引き合いがあったTR-52は、白い格子状のキャビネットから連想して「国連ビル」という愛称があった。盛田が帰途についた1カ月後、その「国連ビル」に異変が起きた。5月になり気温が上がってくると、ほとんどの商品でキャビネット前面の格子が変形し箱から浮き上がってきたのだ。これでは売り物にならない。東通工製トランジスタラジオの1号機TR-52は、正式発売を断念し、変形しない材料研究に着手することとなった。その年の9月、素材を見直して設計したTR-55が、日本初のトランジスタラジオとして発売された。

第3節 日本初のトランジスタラジオ発売

1955年頃、日本のラジオ普及率は74%にまで達していた。しかし「74%というのは、世帯単位の数字だ。これを人間単位にしたら、もっとマーケットは大きくなるじゃないか」というのが、井深や盛田の考えだ。
戦前の真空管を使ったラジオは据え置き型で、家族全員がラジオの置いてある部屋に集まってニュースや歌番組を聴くものだった。戦後、進駐軍がポータブルラジオを持ち込み、次第に各社が真空管式の電池ラジオを個人向けに売り出したが、ほとんど普及していなかった。やはり真にポータブルと言えるのはトランジスタを使ったTR-55をおいてほかにない。自社でトランジスタから製造してラジオを作ったのも、東通工が世界で最初。その開発・商品化に経営資源を集中的に投入してきたので、投資の回収は至上命題であった。そこで、TR-55の発売と同時に、トランジスタラジオをプロ野球日本シリーズの「ホームラン賞」として本塁打を打った選手に贈呈するなど、認知度の向上に知恵を絞った。
トランジスタ市場をもっと広げるためには、東通工1社だけでは限界がある。そう考えた井深たちは、大手電機メーカーへのトランジスタ外販に乗り出した。早川電機(現 シャープ)の社長に仲介の労を取ってもらい、関西の大手電機メーカーである松下電器(現パナソニック)、三洋電機(当時)、早川電機の各社長(松下幸之助、井植歳男、早川徳次)にトランジスタ及びトランジスタラジオを披露し、各社の社長は理解を示してくれた。
翌年から東通工は採用者を増やし、トランジスタ増産のための人員を確保した。

第4節 ポケッタブルラジオ

創立10周年を迎えた1956年、画期的な商品が開発された。当時世界で一番小さいトランジスタラジオであるポケッタブルラジオTR-63である。発売は、翌年の3月に決まった。
TR-63はそれまで世界最小のトランジスタラジオだったリージェンシー社のTR-1型ラジオよりも小さく、感度・出力とも優れており、消費電力も半分以下という商品だった。
当時、小さくてポケットに入るようなラジオは、米国ではポケットラジオという名称で呼ばれていて、「 ポケッタブル」は東通工がTR-63を売り出す時に考えた和製英語だ。既発売のTR-55やTR-72はポータブルと呼ばれていた。そこからより一段と小さくなったことを強調して売り出そうと、ポケッタブルラジオというキャッチフレーズを考え出したのだ。
ポケッタブルラジオは発売早々から評判になり、一人一台のラジオ市場を開拓していった。家の外で歩きながら聴ける、車の中でも聴ける、便利な生活のツールとなったのだ。
また、TR-63はトランジスタラジオの本格的輸出1号機でもある。輸出価格は、39.95ドルに設定した。TR-63は大人気で、この年の暮れには輸出が間に合わなくなり、飛行機をチャーターして米国に空輸するほどであった。
東通工製のトランジスタラジオを順調に輸出できるようになったのは、この年の8月に盛田が渡米して、米国のアグロッド社とラジオやテープレコーダーなどの東通工商品の長期取扱契約を結んだことが大きく貢献している。アグロッド社は、米国の二大電気機器販売会社のひとつで、米国、カナダに強力な販売網を持っていた。世界各国の商品を扱っていたが、日本のものとしては初めて東通工の商品を扱うことになった。もちろん「SONY」のブランドを使うことを前提に契約をした。これは、盛田が固守したことでもあった。当時日本のほとんどのラジオメーカーは、米国では現地のメーカー名で販売していたが、「SONY」は自社のブランド名で勝負をかけた。現地のメーカー名がなくても、ブランドとしての評価を得ることができるという自信の表れだった。
国内でも「SONY」ブランドをもっと広めるため、銀座の数寄屋橋交差点に広告ネオンを掲出した。12月29日の点灯式。井深がスイッチを入れて、夜空に明るく「SONY」のネオンが輝いた。タテ・ヨコ約10メートルの大型のもので、費用は約2,000万円かかった。しかし、それだけのコストをかけた効果がすぐに表れた。この年の大晦日、NHKの中継の中で「SONY」の大型ネオンが日本中に映し出されるという幸運に恵まれたのだ。これを見ていた井深は、「これで元が取れた」と大喜びであった。
年が明けると、新年早々社名を「ソニー株式会社」に変え、新たな出発を図った。トランジスタラジオに「SONY」のブランド名を付けて3年経過していたが、それでも社名の変更には反対意見も多かった。「10年かけて業界に名前を広めた『東京通信工業』を変えるのか」。そう聞かれると盛田は決まって「我々が世界に伸びるためだ」と答えた。会長の万代も、社長の井深も同意見だった。また、「ソニー電子工業」などの案もあったが、盛田は電気にまつわる言葉を入れるのにも反対だった。今後何をつくり生み出していくかわからず、扱うものは電気製品に限らないかもしれないと考えたからだった。社名を変えてでも、海外に通用しやすい社名を選んだのは覚悟を秘めた決断だった。そして経営陣の思惑どおりに、「SONY」の評判は世界中で日増しに高まっていくこととなる。

COLUMN
ソニーのDNA

エサキダイオードの発明

1956年ごろ、半導体部製造第一課の技術者は、トランジスタにリンを添加すると高周波特性が得られることに気づく。早速これを応用した高周波トランジスタの作成に挑むも、リード線取付工程の段階で途端に不良品となってしまうのだった。そこで、研究課の江崎玲於奈らが原因究明に駆り出された。江崎らはリン濃度の濃い結晶を調べているうちに、ダイオードの性質に反して、順方向より逆方向の方が電流が大きく、しかも順方向電流にコブのようなカーブまであったことに気づいた。江崎たちは実験を重ね、与える電圧を増すと逆に電流が減るという、明確に負の抵抗を持つ新しいタイプのダイオードを作ることに成功した。江崎たちはこの成果を、1958 年にブリュッセルで行われた「国際固体物理会議」で発表を行った。すると、その場でトランジスタ発明者の一人であるショックレー博士が、「エサキダイオード」が将来有望であると言及し、世界中の研究者で一躍有名になった。1973年、この発明をはじめとする一連の業績により、江崎玲於奈はノーベル物理学賞を受賞した。