SONY

第6章 トランジスタに“石”を使う <トランジスタラジオ>

第1話 トランジスタに“石”を使う

 さて、金食い虫のトランジスタであったが、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)仙台工場が稼動し始めた1954年6月には、東京・品川の本社工場ではポイントコンタクト(点接触)型、ジャンクション(接合)型両トランジスタを使って、初めてトランジスタラジオの試作を始めるまでになっていた。

 10月になると、日本で初めてのトランジスタ、ゲルマニウムダイオードの披露会を東京・千代田区の東京会館で開いた。当日、東京会館の片隅で、井深と笠原、そして三田無線の茨木悟氏が先ほどからコソコソと立ち話をしていた。笠原が井深から、トランジスタの呼称を何としようかと相談を受けていたのだ。笠原はしばらく考えて、「結晶の晶の字をとって“六晶”“七晶”と言ってはどうでしょう」と提案した。しかし茨木氏から「時計と同じように“石”(せき)を使ってはどうだろうか」という意見が出された。井深も即座に賛同して、以後トランジスタは“石”で、またダイオードは、将来物品税の対象にならないようにとの配慮から石数に入れないことになった。

東通工で作られたトランジスタとダイオード
上:ポイントコンタクタ型Tr
中:ジャンクション型Tr  
下:ダイオード

 続いて同じく10月の末に、東京・日本橋の三越本店でトランジスタとトランジスタ応用製品の展示即売会を開いた。この時には、応用製品としてゲルマニウム時計、試作第1号のゲルマニウムラジオ、補聴器などを展示した。またトランジスタの2T-14型を4,000円、ダイオード1T23型を320円で即売することにした。お客の中には4,000円もするトランジスタをポンと買って行く人もいて、実際のところ、売り手のほうが「こんな高価なトランジスタを買って何に使うのだろう」と驚いてしまった。

第2話 “東通工”から“SONY”のマークへ

 ところで、一口にラジオといっても、真空管式のラジオは市場に出回っている。それと同じではトランジスタで作る意味がない。そこでポータブルタイプがいいということに当然なる。しかし、ポータブルにするためには、部品もいろいろと変えていかなくてはならないし、プリント配線板も使わなくてはならない。その開発が、井深たちの苦心のしどころであった。
 真空管式にも、形はやや大きかったが、電池を使ったいわゆるポータブルタイプのラジオは、すでに世の中にあった。そこで井深たちは、それに使っている部品を「もっと小型にしてもらえないか」とあちこちのメーカーを説得して歩いたのだ。たとえば、真空管式ラジオ用の小型のバリコン(バリアブル・コンデンサー)を作っていた「三美電機」には井深と取締役の樋口が行って、「もっと小型で、性能の良いものにしてくれないか」と頼んだ。小型スピーカーについても同様だ。
 そうこうしているうちに、東通工の社員を落胆させるニュースが、アメリカから届いた。“世界初のトランジスタラジオ発売”というニュースである。1954年の12月、米国リージェンシー社がトランジスタを4石使った出力10ミリワットの本格的なスーパーへテロダイン方式受信機TR-1型を発表、クリスマスシーズンを目指して発売を始めたのだ。

 自分たちの会社こそ最初にと、これまで頑張ってきたのだ。「通産省がもう少し早く許可してくれたら……」という思いが井深の胸をよぎった。しかし東通工にとっては、これがひとつの転機となったことも確かだ。これまで以上に、トランジスタ自体の開発も回路に対しても力を入れて取り組んでいった。成果は、翌年1月に早くも現れた。東通工製のトランジスタを使ったラジオが鳴ったのだ。ジャンクション型のトランジスタ5石を用いた、スーパーヘテロダイン方式受信機TR-52型の試作の成功であった。

 3月、市場調査と商談のためアメリカとカナダに向かう専務の盛田が、サンプルとしてこのラジオを持参することになった。盛田の2度目の渡米に先立ち、東通工の製品すべてに「SONY」のマークを入れることを決定した。井深や盛田、あるいは岩間、樋口と渡航する人間が増えるに従って、あることが話題になるようになった。それは、東京通信工業あるいは東通工といっても、アメリカの人たちは発音できないということだ。発音できないような名前で、物を持って行っても商売にならない。何とかしなくてはと、折々皆で考えていたのだ。

「どうせ変えるのなら、いい名前にしよう」。それが一致した意見であった。それには、いろいろ条件がある。覚えてもらいにくいのも困るし、言いづらいのもだめだ。なるべく簡単な名前で、どこの国の言葉でも大体同じように読めて、発音できるということが大事な要素になる。
 一番簡単なのは、2字の名前だ。しかしローマ字で2字というのは、不可能に近い。すると3字だ。3字では米国のRCA、NBC、CBSあるいは日本のNHK(日本放送協会)といろいろあって、他社と間違われる可能性もある。東通工の頭文字をとってTKKというのも考えたが、これだと東京急行電鉄のTKKと混乱してしまう。結局4字しかない。これで、いろいろな組み合わせを考えることにした。
 この時、盛田たちが一番苦心したのは発音だ。井深はアメリカに行くと“イビューカ”と呼ばれてしまう。それで、いろいろ考えた結果が「SONY(ソニー)」というわけだ。音「SOUND」や「SONIC」の語源となったラテン語の「SONUS(ソヌス)」と、小さいとか坊やという意味の「SONNY」——これは、自分たちの会社は非常に小さいが、それにも増して、はつらつとした若者の集まりであるということにも通じる——を掛け合わせて作った言葉である。これで決まった。 盛田は「SONY」の名前を付けた製品を持って、勇躍アメリカに渡って行った。

第3話 幻の“国連ビル”ラジオ

幻の国連ビルラジオ
「TR-52」

 盛田は、2ヵ月の渡米中に、アメリカ向けマイクロホン1,000個、放送取材用テープレコーダー10台の輸出契約を完了した。さて、サンプルとして持って行ったTR-52であるが、こちらのほうは、アメリカの大きな時計会社「ブローバー社」から引き合いが来た。

 「その値段で当方はOKだ。10万台のオーダーを出そう」。即座に商談は成立するかに見えた。ところが盛田は、相手の出した条件が気に入らない。「SONYでは売れない。当社の商標を付けさせてもらうよ。何しろアメリカでは、SONYといっても誰も知らないんだからね」。これが条件だった。「絶対に断るべきだ」。盛田の気持ちは決まっていたが、こんな大きな商売だ。盛田の一存で断るわけにはいかない。ホテルに帰って、すぐ日本に電報を打った。「10万台の注文を受けた。しかし、それには彼等のブランド名を付けなければならないという条件が付いているので、断るつもりだ」。
 折り返しすぐに返信が来た。「10万台の注文を断るのは、もったいなさすぎる。名前なんかいいから契約を取ってこい」という内容だ。盛田にもこの気持ちは痛いくらい分かる。だからといって説を曲げることはできない。もう一度「断りたい」と打電した。それでも結論が出ない。ついに盛田は日本に電話をかけた。「絶対に向こうの商標を付けるべきではない。せっかくSONYという名を付けたんだ。われわれはこれでいこうじゃないか。第一、10万台の注文をもらったって、現在の東通工の態勢ではできやしないじゃないか」。手持ちの少ない米ドルを使って、電話までかけて説得したのだ。やはり、断ることにして、盛田は注文先の会社に行き、その旨伝えた。「誰がSONYなんか知っているんだ。自分の所は50年かかって、世界中で知られるようなブランドにしたんだ」。先方の社長は盛田のことを、いかにも「商売を知らないやつだ」というかのように笑って言った。「それでは、50年前、何人の人があなたの会社の名前を知っていたのでしょう?」。盛田は反論した。「わが社は、50年前のあなた方と同様に、今50年の第一歩を踏み出したところだ。50年経ったら、あなたの会社と同じくらいにSONYを有名にしてみせる。だから、この話はノーサンキューだ」。東通工の将来を考えると、目先の利益だけを考えていても仕方がないのだ。この話は、結局なかったことにして、盛田は帰路に就いた。1955年4月のことであった。

 ところで、このTR-52、愛称を"国連ビル"と言った。キャビネット前面の白い格子状のプラスチックが、国連ビルをイメージさせるところから命名されたものだ。そして盛田が北米から帰国してすぐの5月、思わぬ事件が起きた。
 5月といえば、初夏である。気温もだんだん上がってくる。その気温の上昇とともに大事件が勃発したのだ。キャビネット前面の格子(国連ビルの窓々)の部分、白いプラスチック全体が黒色の箱から次第に浮き上がってきた。1台だけではない。これまで作った100台のうちのほとんど全部が曲がり始めている。これには、井深たち全員が色を失ってしまった。これでは売り物にならない。無念ではあったが、この東通工製トランジスタラジオの1号機・TR-52は、正式発売を目の前にして断念せざるを得なくなったのである。

 このキャビネット事件を良い教訓に、外形や色のみのデザインから本格的な材料研究に着手し、きれいで強く、永久的に変形しないものへの実現に努力が重ねられていった。その年の9月、装いも新たにTR-55が、日本初のトランジスタラジオの栄誉を担って発売されたのである。

第4話 12種類の回路

 TR-55が完成したのは、回路設計技術者たちの努力に負うところが大きかったと言える。
 当時、トランジスタは依然として歩留まりが向上しない上、せっかくできたトランジスタに特性のバラつきがあった。良いトランジスタだけを選んで、基準外のものを捨てていたのでは、とても商売としてやっていけなかったのだ。
 TR-55の回路はスーパーヘテロダインという方式で設計していたが、この局部発振用コイルを、何と12種類も作ったのである。特性のバラつきへの対応策だ。発振しにくいトランジスタには、無理やりにでも発振させるようなコイルを、反対に特性の良いトランジスタには、それ相応のコイルを組み合わせるのである。相性の良いトランジスタと発振回路を見合いさせて、ようやく1台、TR-55ができ上がるという具合だ。むろん、回路だけが改善されたのではない。このTR-55には、他社に先駆けてプリント配線板が使われている。今でこそ当たり前のプリント配線板も、当時は大変な研究と改良の積み重ねでできたのだ。

日本最初のトランジスタラジオ
「TR-55」

 この頃、ラジオの普及率は74%にまで達していた。そこで「東通工さんが今からラジオを始められても、もう無理ですよ」と忠告してくれる人もいたが、こう言われると、かえって奮起してしまうのが井深や盛田の性分だ。「74%というのは、世帯単位の数字だ。これを人間単位にしたら、もっとマーケットは大きくなるじゃないか」というのが、2人の考えだ。確かに市場には個人用ラジオとして、何社かが乾電池を電源とした真空管式ラジオを売り出していたが、普及率のほうはほとんどゼロに近いと言ってよいくらいだった。これならば、トランジスタラジオが入り込む余地は十分過ぎるほどある。
 『ラジオはもはや、電源コード付きの時代ではありません。ご家庭のラジオもすべてTRとなるべきです。皆様のお好みの場所に、TRはお供することができます』。TR-55のカタログにも、こう明記されている。戦前のラジオは、そのほとんどが家庭にあって、小型のお仏壇といった感じの据え置き型である。個人ユースとなる前のテレビ同様に、家族皆がラジオの置いてある部屋に集まって、ニュースや歌番組を聴いたものだ。戦後、進駐軍が来て、ポータブルラジオを持ち込んできた。乾電池で動く真空管式のラジオである。これは、日本人にとって羨望の品となり、すぐにこれが真似られて、次第に日本のラジオも小型化の傾向を見せ始めたが、やはり真にポータブルと言えるのはTR-55をおいてほかにないのだ。
 確かに、リージェンシー社には遅れをとった。しかし、リージェンシー社のものは、米・テキサスインスツルメント社のトランジスタを買って作ったものである。自社でトランジスタから製造し、その石を使ってラジオを作ったのは、東通工が世界最初だったと言える。

第5話 親を見て決める

 ラジオの販売を始めて、トランジスタビジネスに本腰を入れていくとなると、これまで以上に人手が必要になる。
 「半導体の製造は、これから女子の2交替制でやる。すぐに人を集めて、その人たちの住む所も何とかしてほしい」。半導体部長の岩間から、突然にこう切り出されて、総務を預かる太刀川正三朗(たちかわ しょうざぶろう)は、はたと困ってしまった。もう1956年も終わりの、11月である。これから人を集めてくれと言われたところで、若い人たちのほとんどは紡績会社に就職が決まっているはずだ。事実、地方の職業安定所を訪ねたが、「何だ、今ごろ来ても駄目だよ」と馬鹿にされて帰って来た。会社もそう大きくはないし、知名度も低い東通工にあっては、戦前から実績のある紡績会社の相手になるはずがない。何としても、紡績会社と違う面でアピールする必要がある。そこで、一計を案じて、「当社では、紡績関係で使われているような“女工さん”といった言い方はやめよう。“トランジスタ娘”大募集でいこう」ということに決めた。

 もともと井深たちは、自分の会社の従業員をホワイトカラー、ブルーカラーとはしていない。東通工で働いている人は、どんな仕事をしていようとも、同じ仲間であるという意識だ。そのため、井深や盛田は従業員の一人ひとりを「誰さん」、「何々くん」と親しく氏名で呼んでいた。
 太刀川たちは、“トランジスタ娘”を求めて、仙台から東北、北海道まで出かけて行った。東北では、さほどの成果はなかった。しかし、太刀川の故郷・北海道では、良い子が大勢集まった。というのも、その年、北海道は冷害で、中学を卒業したら高校に行きたいが親のことを考えたら行けないと、進学を迷っている子がたくさんいたのだ。試験は、簡単な筆記と面接である。太刀川は、面接の際、変わった方法を採り入れてみた。採用に応募してきた子に親を同伴させ、親子同席の面接を行ったのである。親を見るとその子もよく分かるというわけだ。

 人が集まったら、次は寮を心配しなくてはいけない。2交替を行うのだから工場に近い所がいい。運よく、東通工とは明治通りを隔てて、「日本気化器」の少し先に蛍光塗料を作っている会社があり、その建物を買い取って改造することになった。3月の卒業とともに、東通工の担当者たちは、北海道から東北を回って“トランジスタ娘”とともに帰って来た。夜行列車に乗り、朝、上野駅に着くと、取りあえず、無事に着いたことを知らせようと会社に電話を入れると、「まだ、寮が完成していない。何とか時間を潰して、昼頃こちらに着くようにしてくれ」と言う返事である。
 何とかしろと無茶苦茶なことを言われても困る。仕方がないので遊覧バスに乗せて、東京見物をさせることにした。皆は大喜びだが、担当者たちは「まだ寮はできないのか」と気が気ではなかった。

 翌年からは、正規に新卒者を募った。当時、採用試験を行うには労働省の適性検査というのがあり、東京で試験をする時には、すべて労働省で面倒を見てくれた。地方で試験を行う時は、その土地の職業安定所の人たちが担当することになり、採用になった人たちは、その県や地域の人がまとめて東京に連れてきてくれるのが慣例であった。
 しかし、東通工では会社から人を派遣し、採用者を東京まで引率してくる。それも、女性には女性のほうが良かろうと、わざわざ女子社員や看護婦さんを連れて迎えに行かせた。何といっても、紡績会社と同じことをしていても人は来ない時代だ。迎えに行く時も、採用者の親御さんにも車代を出して集合地まで来てもらい、昼食をともにして汽車に乗るまで一緒にいてもらう。「お預かりしていきます」と挨拶した後、汽車に乗せる。これなら、娘を見送る親も安心である。こんな心配りが評判を呼び、次第に東通工の採用に人気が出てきた。