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第9章
プレイステーション

第1節 大賀の決断「Do it!」

1980年代、当時ゲーム市場は任天堂が発売した家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」が席巻していた。それまでゲーム業界へ未進出だったソニーは、次世代機「スーパーファミコン」の開発話を耳にし、自社商品との関わりを持たせられないかと技術融合の可能性の模索を進めた。そこで記憶媒体を従来の専用ROMカートリッジを続投させるのでなく、ソニーが開発したコンパクトディスクによるCD-ROMに変更することはできないかという案が浮上したことで、新しいゲーム機開発の機運が高まっていくこととなった。
ソニーと任天堂は1990年初頭、「スーパーファミコン互換機」というCD-ROMが一体化したゲーム機を共同開発する契約を締結する。この互換機には「プレイステーション」の名称が付けられた。結局、2社による互換機が完成することはなく、幻に終わってしまったが、当該プロジェクトを主導していた久夛良木健は、CD-ROM機はソニーが独自にでも進めるべきで、ソニーの将来を考えると、この分野から絶対に撤退してはならないと決意を固めていた。
プロジェクトの中断を受け、ソニー内では「ゲーム事業からは手を引くべきだ」との雰囲気が醸成されつつあった。しかし、1992年中頃に開かれた経営会議が分岐点になる。今後の方針について問われた久夛良木は「ソニーが進むべき道は独自フォーマットのゲーム機を作ること。実は私たちは任天堂との互換機の開発とは別に、3次元のコンピュータグラフィックス(3D-CG)を採用したオリジナル方式を密かに研究、開発してきた。この技術を使えば、スーパーファミコンとは比べ物にならない3次元の画像を実現できる」と力説。久夛良木の熱い思いを目の当たりにした大賀は「そんなに言うなら証明してみろ!」と机をたたき、「Do it!」と叫んだのだった。
この瞬間から、ソニーのゲーム事業は大きく動き出すことになる。

第2節 ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)を設立

ソニーが新たに手がける独自のゲーミングプラットフォーム「プレイステーション」の名称は、ワークステーションに対するコンセプト"遊びのコンピュータ"に由来する。3D-CGを用いたコンピュータとエンタテインメントの融合──久夛良木は「エンタテインメントのためのコンピューターをやりたかった。既存領域ではない『コンピュータエンタテインメント』という新たな市場をつくりたかった」と語っている。
久夛良木を中心とした開発メンバーたちは本格的に体制を整えるため、新青山ビルに「コンピュータエンタテイメント事業準備室」を構えた。ソニーからエンジニアたちが、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SMEJ)からもEPIC・ソニーの丸山茂雄を筆頭とするスタッフが参集し、着々と準備を進めていった。
だが、1つ課題があった。ゲームソフトウェアを保有していなかったソニーは、サードパーティである各ソフトメーカーに全面的に供給を委ねる必要があったのだ。さまざまなタイトルを持つライバルたちとは違い、「プレイステーション」は自力だけではフォーマットを立ち上げることができない。事業の始動当初は久夛良木や丸山らが全国を奔走し、メーカーに直接交渉を持ちかけていたものの、良い返事を得ることはかなわず「そんなものが本当にできるのか」という懐疑的な目を向けられるばかりだった。
急速に事態が進展したのは、1993年10月末のことである。
ソニーとSMEJは10月27日、両社の共同出資のもと、家庭用ゲーム機およびソフトウェアの開発・販売、並びにソフトウェアメーカーとのライセンス業務を行う「株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)」を11月中に設立すると発表した。方針には、3D-CGの表現力を当時の高性能グラフィックスワークステーション並みに高めることで従来のゲーム機との差別化を図り、新しいコンピュータエンタテインメントの実現を目指す、などと掲げられた。
翌28日、ソニー本社10号館で「プレイステーション」のサードパーティ向けの技術説明会を開催。主役は大量の電子部品を結線した、4台の試作機だった。大賀は全国各地から参集したソフトウェアメーカー関係者の前に立ち、「新会社はソフトとハード、どちらかに偏るとうまくいかない。私たちは、今まで培った技術をフルに生かし、ゲーム機の分野でも最先端を行きたいと思っているので、皆さんのご協力をよろしくお願いしたい」とあいさつした。
渾身(こんしん)の技術デモが始まると、画面上には球体や立方体といった陰影のついた複数の3D画像が浮かび上がり、後半には恐竜ティラノサウルスが大きく映し出された。皮膚などが細部まで描き込まれた迫力ある恐竜がコントローラーの操作に従って歩き、ほえ、目をむく姿に会場中の誰もが言葉を失い、身じろぎもせずただ立ち尽くすばかりであった。その翌日から、各メーカーから予想を超えた反響が入り始める。技術デモは大成功だった。
これを機に多くのメーカーを陣営に引き込むことができたソニーは、3D-CGの経験がないクリエイターに向けた基本的なプログラム集「PSライブラリ」の提供や、ゲーム制作に用いるサンプルコード群の用意を進めるなど、「プレイステーション」に関わるエンジニアやクリエイターすべてが創造性を最大限に発揮できる環境を用意することを常に心がけた。こうした活動が奏功し、後にサードパーティから多数のソフトが続々と誕生した。1993年11月16日、SCEが誕生する。初代社長にはSMEJ会長に就任していた小澤敏雄が、副社長にはソニーから移った徳中暉久とEPIC・ソニーの丸山が就いた。取締役となった久夛良木は「ゲーム市場において今までの10年が2D-CGの時代だとすると、これからの10年はリアルタイム3D-CGの時代となるだろう」と展望を見据え、小澤は「SCEはソニーというハードの会社とSMEJというソフトの会社を両親に持ちゲームの世界に船出する。デジタル技術のCDが音楽市場を大きくしたように、われわれも「プレイステーション」でゲームビジネスをさらに大きくしたい」と決意を示した。

COLUMN
ソニーのDNA

井深賞と「プレイステーション」

1976年5月、創立30周年を記念して「井深賞」が創設された。井深賞は、優れた技術開発・発明を通してソニーに多大な貢献をした人に与えられる賞として、第1回はテープレコーダーやビデオ機器などの開発を主導した木原信敏(当時常務取締役)が受賞した。その後、トリニトロン技術、CCD、CMOSイメージセンサー、αカメラシステム等、ソニーの成長を支えた数々の技術や商品に授与され、現在も技術関連の最高賞としてエンジニアの目標となっている。
「プレイステーション」は1997年に初めて井深賞を受賞した。久夛良木は「井深賞を受賞できたことは、特にエンジニアとしては大変うれしいことだ。「プレイステーション」によって、私を含めたエンジニアが夢を実現し、世界中で大きな成果をあげることができた。まさに、井深さんが書かれた設立趣意書にある"技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ、自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設"をかなり近い形で実践できた」と語った。また、徳中は「盛田さん、大賀さんなどトップの方々が、われわれのビジネスを展開できる土壌を整えてくださったことが、今の成功につながっていると感謝している。ソニーグループがハードとソフトを持っていたからこそ、多くの知恵が集まり、久夛良木さんを中心に開発エンジニアたちの夢を実現できた」と受賞の感想を述べた。優れた技術と独自の戦略で市場を創造した「プレイステーション」は、その後「プレイステーション2」、「プレイステーション4」でも井深賞を受賞し、ソニーグループの業績とビジネスに多大なる貢献を続けている。

第3節 「プレイステーション」発売

SCEの設立から約1年が過ぎた1994年冬、ソニーの持つ「ハード」技術とSMEJの持つ「ソフト」ノウハウの融合によって、ついに待望のソニー独自のゲーム機「プレイステーション」が誕生した。専用の32ビットCPUにより、高画質の背景と多数のリアルな3D-CGのキャラクターを表現可能なほか、音楽CDに匹敵する高クオリティなサウンド再生を実現。開発にこぎ出す以前は「しょせんは玩具」「なぜソニーが玩具をやるのか」といった意見が社内で散見される状況だったが、生まれたこの商品は玩具の域をはるかに超えていたのだ。
当時の高性能ワークステーション並みのスペックを誇る「プレイステーション」は、同年12月3日、3万9,800円という破格の値段で世に送り出された。「いくぜ、100万台」「全てのゲームは、ここに集まる」などの鮮烈なキャッチコピーを掲げ、ゲーム業界へと切り込んだのだ。ソニーブランドは通用しないと言われていたが、用意した10万台は瞬く間に売り切れ、以後半年足らずでうたい文句としていた100万台を突破するメガヒットを果たした。
「プレイステーション」が一時代を築き上げることができたのは、美麗な画像や潤沢なソフトだけが要因ではない。記録メディアに当初から推し進めていたCDROMを採用したことも、流通面で革新的な役割を果たしている。
当時主流であったROMカートリッジは製造に時間がかかり、在庫が切れると数カ月間供給されないことがあったが、CD-ROMを用いる「プレイステーション」では、すでにSMEJが確立している生産・物流体制を最大限に活用でき、小ロットであっても音楽CDと同様に発注から最長6日ほどで納品することができた。また、3D-CGに対応できる大きな容量を備えながら、物理的な製造コストも格段に安価であった。さらにSCEはゲームソフトウェアの流通のあり方にも革命をもたらした。従来の問屋を介する慣行に捉われず、メーカーが小売店に直接販売できる体制を確立したのだ。ゲームソフトウェアのスピード生産と低価格化を実現したCD-ROM、またそれをいかすための流通改革が、爆発的なヒットを支える重要な要素となった。
ハードウェアの先進的なデザインも目を引いた。四角い箱に円形を重ねたシンプルな本体に加え、コントローラーにはホールド感を重視したグリップタイプを採用。当時一般的であった扁平(へんぺい)な造りとは根本から異なる形状だった。各ボタンに割り振られた「△◯×□」の図記号は、のちに「プレイステーション」のブランドロゴの役割も果たしている。デザインを手がけた後藤禎祐がこだわり抜いた「シンプルでアイコンになるもの」の結晶だった。
「プレイステーション」は世界中で人気を博し1996年11月末で全世界生産出荷累計が1,000万台に達した。1つのモデルでこれほどの数量がこの短期間のうちに販売されたのは、ソニーの中でも記録的な出来事だった。