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第8章
音楽・映画事業のグローバル展開

第1節 CBS Records Group買収

CBS・ソニーレコード設立から19年が経過した1987年11月、ソニーの音楽事業は大きな転換点を迎えた。合弁相手である米国CBS社傘下のレコード会社「CBS Records Group」をソニーが買収したのだ。
盛田は1988年、CBS・ソニーの20周年を祝う式典でこう語った。「ソニーのパートナーであったCBS Recordsを我々の仲間に迎えました。新しいハードウェアを活かすためには、それにふさわしいソフトウェアが必要です。どうか、この次の10年、我々が30周年を祝う時には、もっと大きな、もっと幅広いソフトウェアビジネスを確立していてほしいと思います」
CBS Recordsの買収検討を開始するきっかけは1986年11月、ソニー・アメリカのマイケル・P・シュルホフから大賀が聞いた情報だった。
1986年秋、米国CBSのCEOローレンス・ティッシュは、米国CBSグループの構造改革を進める中でレコードビジネスをグループから切り離すことを画策していた。その考えを知ったCBS Records 社長のウォルター・イエトニコフは、ティッシュに売却反対を主張したが聞き入れられず、シュルホフに相談を持ちかけたのだった。
ここではCBS・ソニー設立時に契約書に設けられた、ある一節が大きな意味を持った。米国CBSはソニーを牽制するため、「一方が株の売却を望む際、ファーストオプション(優先交渉権)は相手方にある」という条件を契約書に設けていた。この付帯事項があったため、米国CBSによるCBS Records株式売却の意思が、まずソニー側に伝えられることになったのである。
このような経緯で交渉が始まったが、事はそう簡単には運ばない。米国CBS会長のウィリアム・ペイリーをはじめ役員会が売却に異を唱えたのだ。その意思は固く、以後10カ月間にわたり売却交渉は停滞することとなった。
転機が訪れたのは、1987年10月。米国株式市場最大規模の株価大暴落、いわゆる「ブラックマンデー」が発生したのだ。これによりペイリーは一転、売却に同意。ニューヨークを舞台にした交渉の末、1987年11月19日、ソニーと米国CBSは買収に合意する契約を締結したことを発表した。買収価格は20億ドルで、当時の日本円に換算しておよそ2,700億円。日本企業による買収としては異例の額であったが、大賀はCBS Recordsにはこの金額に見合うだけのバリューがあると考えていた。「米国CBSが持つCBS・ソニーの50%と、50年の歴史を持つCBS Recordsの全資産を考えると、決して高すぎるものではない。21世紀はソフトウェアの時代と言われている。ハードとソフトはクルマの両輪のようなもので、2つのバランスがとれた時にはじめてそのビジネスが成功する。両輪を育て、21世紀に勝ち残る企業にしていきたい」と、その意義を説明した。
世界最大のレコード会社のひとつであったCBS Recordsを傘下に収めたことで、ソニーはソフトウェア事業をグローバルへ拡大していくための第一歩を踏み出し、2年後のコロンビア・ピクチャーズ買収へとつながっていく。

第2節 総合エンタテインメントビジネスとしての成長

CBS Records、そして第3節で触れるコロンビア・ピクチャーズという音楽・映画の2大企業を買収したソニーの事業ポートフォリオは大きく変化した。1990年度のソニーの連結決算では、音楽事業の売上高は約4,700億円(ソニー全体の13%)、映画事業も約2,600億円(同7%)と、エンタテインメント分野が全体売上に占める割合は20%に達した。
その後の1991年1月、CBS Records は社名を「ソニー・ミュージックエンタテインメント(SMEI)」に、日本においても株式会社CBS・ソニーグループが同年4月から株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント(SMEJ)にそれぞれ社名変更した。
そして同月、SMEIとコロンビア・ピクチャーズを傘下に置く、ソニー・ソフトウェア(本社・ニューヨーク)が米国で発足した。ソニーソフトウェア会長には大賀が、社長にはSMEI会長も兼務するミッキー・シュルホフがそれぞれ就任し、ソフトビジネスのグローバル展開を見据えた組織体制が整えられていった。アーティスト関連では、1990年に米国でマライア・キャリーがデビューし、1991年にはグラミー賞の最優秀新人賞と最優秀女性ボーカリスト賞を受賞、さらに『Music Box』(1993年)などシングルとアルバムの両方で全米チャートのトップを獲得した。マイケル・ジャクソンの『Dangerous』(1991年)は、異なる音楽ジャンルを融合させることでポップミュージックの可能性を再定義した。また、セリーヌ・ディオンの『Falling Into You』(1996年)、ブリトニー・スピアーズの『…Baby One More Time』(1999年)、サンタナの『Supernatural』(1999年)などが、史上最も影響力の大きいベストセラーアルバムのひとつとなった。
日本国内では1989年に久保田利伸のアルバム『The BADDEST』がミリオンセラーとなると、1992年には米米CLUBのシングル『君がいるだけで/愛してる』が200万枚、翌1993年にはDREAMS COME TRUEのアルバム『The Swinging Star』が300万枚を突破。他にもプリンセス・プリンセスや尾崎豊などの楽曲が大ヒットとなった。
エレクトロニクスを祖業としてきたソニーは、20世紀の終わりまでに音楽事業でも最先端を行く世界的な存在としての地位を確立した。

第3節 米国からの批判

「音楽の次は映像だ」。CBS Recordsの買収(1988年1月)に続き、翌1989年11月、ソニーは米国の大手映画会社コロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメントを株式の公開買い付けで買収した。買収金額は負債を含めると総額48億ドルで、当時の日本企業による米国企業の買収としては史上最高額とされた。2件の大型買収により、ソニーは映像・音楽の両分野でコンテンツ資産・事業基盤を持つことになり、日米で大きな反響を呼んだ。
とりわけコロンビア・ピクチャーズの買収は、米国の雑誌や新聞で大きく取り上げられた。当時加熱していた日米貿易摩擦による影響もあり、批判的な声は少なくなかった。大手週刊誌『ニューズウィーク』の表紙には、コロンビア・ピクチャーズの象徴であるコロンビア・レディーが着物をまとったイラストとともに「Japan Invades Hollywood(日本がハリウッドを侵略)」という見出しが掲載され、「日本企業は米国の魂を買った」と取り沙汰された。
こうした事態も踏まえて盛田は会見を開き、買収の意図について説明した。盛田は、前年に買収したCBS Recordsについても、「ソニーは経営への関与は最小限にとどめ、あくまで優秀な社員たちが働きやすい雰囲気づくりに努めている」と説明。「コロンビア・ピクチャーズの社員たちを不安な気持ちにさせることがないよう、ソニーグループに入って良かったと思ってもらえるように努力する」と述べた。雑誌・新聞等のメディアで買収が注目を集めていることについては、「日米間の貿易摩擦の問題がなかなか解決しないことから、感情的・政治的に扱われている」と遺憾の意を示し、「我々は本当に一緒になってやれる相手だということを実証することで、米国の日本に対する考え方も変わってくると思う。ソニーはそれをやれるし、ソニーがやらなければひとつの壁は破れないと思っています」と強調した。その言葉には、日米間の壁、特に当時米国が日本に対して抱いていた警戒感を取り払い、相互理解を深める一助になりたいという思いがにじんだ。

第4節 ハードとソフトはクルマの両輪

ハードウェア資産とソフトウェア(コンテンツ)資産の両方を持つことの重要性については、ソニー経営陣が今後の経営環境を検討する中で折に触れて社内外へ発信してきた。1968年にCBS・ソニーレコードが設立されると、音楽ビジネスを経営するノウハウや実力がソニーグループの内部に蓄積されていった。さらに、CBS Recordsとコロンビア・ピクチャーズという2件の大型買収により、総合エンタテインメント企業への道が開けた。ソニーはコロンビア・ピクチャーズの買収と同時に、グーバー・ピーターズ・エンタテインメント社を約2億ドルで買収。映画『レインマン』や『バットマン』などの共同プロデューサーとして知られたピーター・グーバーとジョン・ピーターズの両氏を経営者として迎えた。
買収から2年後の1991年8月には、社名をソニー・ピクチャーズ エンタテインメント(SPE)に改称した。ソニー・ファミリーの一員としての意識を高めることで、ハードウェアとコンテンツの相乗効果をねらうとともに、映画事業会社としての自立性を高め、経営体制の強化やビジネスの拡大を図るという意図もあった。
SPEの事業は映画の制作および配給にとどまらず、1990年代末までにテレビ番組の製作・配給、テレビおよびデジタルネットワークの運営、デジタルチャンネルやパッケージメディアを通じたコンテンツ配給、さらにカリフォルニア州カルバーシティに所在するスタジオ施設の運営にも及んだ。
また、1992年にはソニー・ピクチャーズ・イメージワークス(SPI)が設立され、SFXやCGといった映像特殊効果技術で社内外問わずさまざまな作品に参加。ポストプロダクション(撮影後の編集・加工)でソニーの先進的なハードウェアや技術を導入したSPEのスタジオとともに、ハリウッド全体に付加価値の高いサービスを提供した。
一方で、収益性の点では課題に直面した。ソニーは94年度第2四半期の連結業績で、映画部門において2652億円の営業権の一時償却を発表した。1989年の買収後、当初数年間においては、SPEの映画製作スタジオは大きな成功を収め、1993年まで3年連続で北米劇場興行収入において業界首位の実績を達成した。しかし、その後は業績が低迷し、多額の投資に見合う十分な収益を上げることが困難となった。こうした状況を踏まえ、SPEの業績回復に向けた追加投資の必要性を認識するとともに、経営体制の刷新の機会と捉え、ソニーは映画事業に対する投資価値を再評価し、会計処理の見直しを行なった。
1996年10月、SPEは当時ユナイテッド・アーティスト・ピクチャーズ(UA)の社長兼COOだったジョン・キャリーを社長兼COOとして招き、新体制が始動。ソニーの技術力とSPEのコンテンツを結びつけて収益を最大化すべく、改革に着手した。