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第4章
海外進出と資本政策

第1節 TR-610の海外でのヒットとSONYブランドの飛躍

1957年に発売され、日本で評判となったポケッタブルラジオTR-63は、本格的な輸出第1号機として米国でも大人気となった。同年9月に米国総代理店にアグロッド社を据えて米国全土への販売網を確立すると、ソニーの名は高品質のトランジスタラジオの代名詞として親しまれるようになっていった。
翌年の1958年1月、ソニーのラジオがニューヨークの倉庫から盗まれたというニュースが飛び込んできた。犯人たちは他の会社のラジオには目もくれず、TR-63だけを4,000個盗んだようだった。
追加オーダーや盗まれたラジオのシリアルナンバー確認などで東京も大騒ぎだったが、現地紙でも大きく報道されたこの盗難事件のおかげで、ソニーの米国における知名度はさらに向上した。
同年6月には、TR-63よりも一回り小型軽量になったTR-610が発売された。TR-610は、国内よりも欧米へ先行して輸出され、斬新なデザインと高性能で大評判となり、1960年までの2年間で、日本を含む全世界で50万台が販売された。また海外の一流デパートや高級専門店では競ってTR-610を展示し、一時はプレミアム付きで取り引きされたり、模造品を作るメーカーまで現れるなどヒット商品となり、ソニーの名をさらに海外に知らしめる役割を果たしたのだった。

COLUMN
ソニーのDNA

モルモットのソニー

1958年、週刊誌に「ソニーはモルモットだ」という主旨の記事が出た。
評論家が東芝を取り上げた記事で引き合いに出されたもので、「トランジスタでは、ソニーがトップメーカーであったが、現在ではここでも東芝がトップに立ち、生産高はソニーの2倍以上に達している。つまり、儲かると分かれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強みがある訳で、ソニーは、東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」と書いたのだ。当初はひどく憤慨した井深だったが、後年には「私共の電子工業では常に新しいことを、どう商品に結び付けていくかということが、一つの大きな仕事であり、常に変化していくものを追いかけていくというのは、当たり前である。ゼロから出発して産業と成りうるものが、いくらでも転がっているのだ。決まった仕事を決まったようにやることは、もはや時代遅れであり、モルモット精神を上手に生かしていけば、いくらでも新しい仕事ができてくるということだ。」とし、「モルモット精神もまた良きかなと言わざるを得ないのではないか」「日本よ、モルモットの後について来いというぐらい、次のものを開拓する意欲に燃えていた」と、語っている。たとえモルモットと言われようとも、日本の電子産業が発展し、消費者が便利を享受できれば、それでよいのではないかというのが、井深をはじめソニー経営陣の考えであった。2年後の1960 年に井深が藍綬褒章を受章した翌年、社員有志がお祝いに井深に金のモルモット像を贈った。金のモルモット像はその後も井深の開拓者精神の象徴として、後世に引き継がれていく。

第2節 ソニー・アメリカの設立

かねて世界進出を構想していた盛田は、ニューヨーク、香港、チューリッヒに事務所を開設するなど着々と準備をすすめた。
当時ソニーにとって日本に次ぐ市場は米国だ。米国における販売は、商品ごとにアグロッド社とスーパースコープ社が代理店として担当していた。アグロッド社はデルモニコ・インターナショナル社を通じてトランジスタラジオを販売していたが、ニューヨーク地域以外の市場開拓には消極的だった。そして1960年1月、決定的な事件が起きる。デルモニコ社が「世界で初めてのトランジスタテレビTV8-301を取り扱うことを勝手に発表し、予約注文まで取り始めたのだ。デルモニコ社との契約書にはトランジスタテレビを取り扱うという内容は一行も入っていない。盛田はこの時、デルモニコ社との関係を打ち切ることを決意した。そして「米国にソニーの自主流通体制をつくるための好機である」との考えを持つに至った。
そして1960年2月、ニューヨークに現地法人ソニー・アメリカ(Sony Corporation of America、以下 SONAM)を設立し、販売に乗り出すことになった。現地資本と組まずソニー全額出資の現地子会社を立ち上げることに、社内からは危惧する声もあった。日本の他の電機メーカーもそんなことはしていなかった。しかし「今をおいて好機はない」と盛田は明言した。たとえ苦しくてもチャンスを逃さず実行に移していく。これこそ盛田らしいやり方であった。
SONAMを設立した盛田は、旧知のロッシーニ氏を弁護士につけ、デルモニコ社と粘り強く交渉にあたった。相手の違反行為を指摘する盛田の毅然とした態度とロッシーニ氏の熱意で、デルモニコ社が要求する補償金の額が当初の10分の1以下に下げられ、関係の解消が認められた。
このときのSONAMのオフィスはわずか10坪程度。しかし、山田の自宅を借りてニューヨーク連絡事務所を開設してからわずか2年半で現地法人を持つことになり、盛田は感無量だった。
盛田たちの最初の仕事は、トランジスタラジオを売り込むこと。テープレコーダーの時と同じで、なぜ小さいラジオが必要なのかを、一人ひとりに説いて歩くことから始めた。「米国にはたくさんの民放のプログラムがあり、それが常時流れている。トランジスタラジオなら誰もが、自分の好きな時間に、好きな場所で思い思いの番組を聴くことができる」。こうしたセールストークを新任のセールスマネジャーに教えていった。しかし、やっとそのセールスマネジャーが仕事を覚えた頃、「給料を倍払うという他社に行きます」とライバル会社に引き抜かれてしまった。つまり盛田が教えた販売のノウハウは全部、競争相手に持っていかれたということになる。
手間をかけて育てた人間が、簡単に競争相手に引き抜かれてしまうという事態に、盛田は「日本人と米国人のものの考え方は、根本的に違うのだな」と、米国の合理性と文化の違いを実感させられることになった。
その後もSONAMは苦労しつつトランジスタラジオの拡販に取り組んだが、スーパースコープ社との契約が残っているためテープレコーダーは扱えず、SONAMの売り上げは伸び悩んだ。
しかし状況は一変する。1962年10月、TV5-303を販売すると3,000台の在庫が一気に売り切れたのだ。 その後も日本から急遽空輸して販売するなど、マイクロテレビは盛田たちが予想した以上の大成功となった。
その盛況の中、盛田は家族揃っての米国移住を決意していた。「米国人の生活を理解し、米国市場で成功しようと思うなら、会社を設立するだけでは不十分だ。家族で住んで現地の生活を経験すれば、米国民を理解することができるだろう」。そう考えた盛田は、他の経営陣の反対を押し切り、翌年6月に日本を離れた。盛田は米国に根を張り 、ニューヨークの自宅アパートに客を招待し人脈を広げ、現地法人社長としてセールスを陣頭指揮した。自ら身を投じて覚悟を示した盛田の奮闘が、ソニーの海外進出への道を切り開いていった。

第3節 ADR発行とニューヨーク証券取引所上場

トランジスタラジオの発売以降、企業規模の拡大が続いたソニー。1955年8月には、東通工の株式が東京証券取引所(東証)の店頭取引銘柄に指定され、社名変更後の1958年12月、ソニーの株式は東証第一部への上場を承認された。これまでの業績、今後の将来性とも申し分ないとの評価を得たことになる。
ソニーが急激に成長を遂げたのは、井深の先見性と盛田の行動力、社員たちのチームワークに加えて、たゆまぬ探究心を持つ技術陣の貢献によるものだった。
1960年には、トランジスタの生産は月産100万個に達していた。増産が続き、御殿山の本社工場は手狭になっていた。そのため新たな工場をつくる話が持ち上がった。
目を付けたのは、神奈川県の厚木だった。東京・横浜との距離や、いずれ高速道路ができればこの周辺を通るだろうと予想し、そして何より、広い土地を確保することが可能だったからだ。1960年11月1日、ソニー厚木工場が完成した。さらに同月、保土ヶ谷で中央研究所の新設工事に着手するなど、会社の成長は止まることがなかった。
会社が成長を遂げるとともに、1956年に500名ほどだった社員数は、5年後の1961年には4,000名に迫るなど急増し、以前のようにお互いの顔がわかる小さな会社ではなくなっていた。1956年に発足した労働組合は社会背景と連動して先鋭化していき、1961年5月の創立15周年記念日に急進派労働組合が初のストライキを実行し経営側と対峙した。井深と盛田はこの時、当初はわずか二十数名だった小さな会社と現在とでは事情が違うことを痛感するとともに、本格的に労使問題に取り組む機会にもなった。
また、研究、開発、そして設備投資への出費が増えるこの頃、盛田や吉井陛は、今後のソニーに必要な資金調達を真剣に考えていた。そして下した結論が、直接金融へのさらなる転換だった。「銀行から借りるのではなく、世界中の証券市場から資金を調達しよう」。その思いで踏み切った米国における日本初のADRの発行が、1961年1月に日本政府から認可された。
ADRとは、日本の原株式を米国の銀行が預託を受け、代用証券を米国で取り引きするもの。日本の企業としては、ADRとして自社の株式が米国で流通するなら、社名はもちろん、会社や商品の良い宣伝になる。日本の100社以上の候補銘柄から大蔵省(現 財務省)の厳しい審査を経て、指定されたのは16銘柄。戦前からの優良企業が名を連ねるなか、社歴も浅く、資本金わずか9億円というのはソニーだけであった。1961年2月、ソニーは臨時取締役会を開き、増資のため新株式発行を決議。そのうち200万株をADRによって米国市場で公募することにした。
無事ADRの発行資格を得たソニーだったが、ここから半年間、複雑な発行手続きに奔走することになる。ADR発行のプロジェクト・マネジャーには盛田自身があたることになったが、「このADR発行の仕事は、私の数々の経験の中でも最も困難な一大事業であった」と後に盛田はふり返っている。
米国には「1933年法」という法律があり、投資家に正確な情報を開示することが定められている。そこで、新規に有価証券を発行する場合には、数多くの財務諸表を記載した有価証券届出書を米SEC(米国証券取引委員会)に提出しなくてはならない。
作業は、日本の商法を英訳することから始められた。次に、米国の会計方式によって、ソニー及びその関係子会社までを含めた連結財務諸表を作成しなければならない。さらに過去3年4カ月における経理の状態について、米国の公認会計士の監査を受けることになる。ところがこの時まで、日本企業には「連結」という概念がなかった。「連結とは何か」から学び始め、過去にさかのぼり単独決算を連結決算に変えるなど、昼夜を問わず書類作成に取り組んだ。その上、すべての契約書・規定・議事録は英訳され、かつその英訳の正確性についてソニーの役員と弁護士の認証を得なくてはならなかった。
こうした準備を終え6月、ニューヨーク市場でソニー株式を公募する登録申請が正式に受理された。
ADR第1号となったソニーのADRは、1ADRが原株10株単位、公募価格は17ドル50セント(当時のレートで6,300円)で公募を開始したが、発売後わずか1時間で200万株が売り切れ、買い23ドル、売り24ドルの気配値がつくという大人気だった。成り行きを心配していた関係者一同は、胸をなでおろした。6月15日、受託銀行である東京銀行(現 三菱UFJ銀行)において原株券の検査と払い込み・引き渡しが行われ、ニューヨークではそれを国際電話とテレックスにより確認、無事手続きを完了した。これでニューヨーク証券取引所上場(1970年) ADRは正式発行となり、この時点でソニーの資本金は21億円になった。
ADRにより積極的に新しい株主を米国で募集し、海外資本の拡大を図っていくというソニーの試みは大成功だった。国内市場に次ぐ大きな市場だった米国で、多数の株主や消費者に「SONY」のことを知らしめる意味もあった。この成功は後に続く日本の企業にも大きな道標となった。
その後もソニーは海外での資金調達を着実に進め、1963年には2回目のADRを発行した。さらに海外展開を前に進めたい盛田は、当時全世界の取引株式時価総額の75%を占めていたニューヨーク証券取引所に直接上場したいと考えた。ADRの時と同じように盛田の下で準備が開始され、国内では必須とされていなかった社外取締役制度の導入など上場基準のルールを1つひとつクリアしていった。そして、業績や財務内容などの厳しい審査を経て、1970年9月、ついにソニーは日本企業として初めてニューヨーク証券取引所への上場を果たした。
世界最大の証券取引所への上場は、ソニーにとって資本を調達する目的だけでなく、真の国際企業としての地位を象徴するものだった。上場初日の記者会見の席上で、盛田は「今回の上場によって世界企業としての第一歩を踏み出した。欧州市場にも上場して、ソニーを世界的基盤に立つ企業にしていきたい」と語った。