第1章
CBS・ソニーレコード誕生
〜ソニーの多様性の原点〜
第1節 未経験者が創った全く新しいレコード会社

CBS・ソニーレコード創業記念パーティで挨拶する盛田(1968年)

CBS・ソニーレコードの人材募集広告(1968年3月17日 朝日新聞)
「大賀さん、ちょっと来てくれませんか」。盛田に突然呼び出された大賀典雄は、急いで盛田の部屋に向かった。盛田は経緯を手短に説明し「CBSから、我々とジョイントベンチャーでレコード会社をやりたいと言ってきているけれど、どう思う?」と、大賀に意見を求めた。
「やりましょう」。大賀に異論はなかった。もとより大賀は、ソニーの将来あるべき姿には、レコード会社の所有が不可欠で、実現しなければならない夢であると考えていた。そのため、以前から「オーディオ機器をつくるソニーには音源が必要です。レコード会社を持つべきです」と、たびたび進言もしていたのだ。
盛田もその意義をよく理解していた。「大賀さん、あなたに合弁会社設立の条件を詰めてもらいたい」。2人は、交渉に向けて基本的な方針を確認しあった。
ソニーの音楽事業進出のきっかけとなったのは、日本政府による資本自由化だった。1967年7月、米国や欧州諸国からの外圧の高まりを受けて、それまで制限されていた外国資本の日本進出が一部認可された。実施された第一次資本自由化では、自由化の対象となる業種ごとに、それぞれ認める外資比率が「50%まで」と「100%」に規定されており、その「50%まで」の業種の中にレコード産業は含まれていた。この自由化を機に、日本のレコード市場に乗り込んできたのが、米国最大の放送会社CBSである。
同年夏ごろ、当時CBS・インターナショナルの社長を務めていたハーベイ・シャイン氏が、特命を受けて来日した。合弁相手を求めていくつかのレコード会社と交渉に当たったが、返って来るのは「検討中」の言葉ばかり。「イエス・ノー、一体どっちなんだ。これが、日本式のビジネスか?」と、シャインは苛立ちを覚えていた。
そして10月、シャインは放送用機器の取引で関係のあったソニーの盛田から何か助言をもらおうと、品川のソニー本社を訪れた。出迎えた盛田はCBS側の提案に耳を傾けると「では、ソニーと合弁でやらないかね」。自ら名乗りを上げた。その決断の早さに、シャインは驚かずにはいられなかった。いろいろな会社を巡ってもまとまらなかった話が、盛田と顔を合わせてわずか30分で動き出したのである。
交渉はCBS側が感心するほどのペースで進んでいった。同年12月には合弁会社設立契約書の調印がなされ、通産省(当時)へ認可を申請する運びとなった。しかし社名については双方最後まで譲らず、CBS側が「当然『CBS・ソニーレコード』だ」と言えば、ソニー側は「日本の会社だから『ソニー・CBSレコード』だ」と主張し合った。結局「仕方がないから、アルファベット順で」と決着し、翌1968年3月、「CBS・ソニーレコード」が誕生した。資本自由化措置が実施されて以降、「日本で第一号の外資との合弁会社」となった。資本金は7億2,000万円。ハードとソフトのメジャー企業同士の合弁とあって、レコード業界には大きな衝撃が走った。この合弁会社設立は、のちにソニーグループの総合戦略となる「ハードとソフトのシナジー」の実現に向けた第一歩となり、さらに21世紀のソニーを象徴する「多様性」の原点となった。
CBS・ソニーレコードの社長は、ソニーの副社長だった盛田が兼任したが、実質的な経営は当時ソニーの取締役製造企画部長だった大賀に任されることとなった。そこで大賀は自らCBS・ソニーレコードに転籍。他社に出向していた小澤敏雄をはじめとする10人足らずの精鋭が、大賀からの誘いに応え、それに続いた。創業の中核となったメンバーの中に、レコード業界を経験したことのある人材はいなかった。
「新しい会社の将来を決める最大の要素は、"人"である」。そう確信していた大賀は、あえて全くの素人に白羽の矢を立てたのだ。小澤自身もレコードなど10枚程度しか持っていない門外漢。戦前からの歴史を誇る老舗レコード会社がひしめく日本市場に進出するためには、まったく新しい発想が必要だった。
小澤は、大賀の指示でCBS・ソニーレコードの経営理念を起草した。そこには次のように記されている。(1)独自の社風を(2)ブランドに誇りを(3)人を生かす経営を(4)国際的な経営を(5)最大限の利潤を──。(3)には、「CBS・ソニーは人を生かし、会社を生かすことを最も重要な経営方針の一つとする。」「(中略)会社の基本は人である」との記載もある。
その経営の根幹となる人材を集めるにあたり、大賀は「新しい会社には新しい人材だ。素人でもよいから、やる気のある人だけを集めて新しいビジネスをやろう」と決断。1968年春、新聞の朝刊に大きく求人広告を展開した。国籍・年齢・性別・学歴・身体障がいの有無を一切問わないという応募資格も、当時としては異例であった。集まった応募者はなんと約7,000人。そこから選抜を重ね、音楽を愛する80人が第1期生として新たな同志となった。業界の慣習にとらわれない新しいレコード会社として、ゼロからのスタートを切ったのである。
第2節 我々は10年後に、日本一のレコード会社になる

CBS・ソニーレコード本社前で 米CBSスタントン社長(中央)と(1970年)
新しいレコード会社として各地に営業をかけるにあたり、大賀は「レコードは、レコードのことを24時間考えている人間がやらなければならない。レコードの営業とハードの営業は違う」と、CBS・ソニーレコード自身で営業業務を行う方針を固める。自分たちの手で採用し育成した社員に、ソニー本社に頼らない独立心を持たせたい、と考えての判断だった。
大賀は営業活動が始まる前日、研修の終わった社員たちを前にこう語っている。「明日からみんなには現場で頑張ってもらう。我々は10年後に、日本一のレコード会社になる」。一切妥協せず芯を貫くこの姿勢が、のちに日本のレコードビジネスの変革の波を生み出していく。
そして1968年8月、初の新譜がリリースされる。販売を担ったのは東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、広島に配置された7つの営業所(設立当初は仙台、広島のみ出張所)。当時は大都市に販売ネットをもち、順次全国に拡大していく流れが通例であったが、大賀の強い意向により、初めから全国に拠点を構えたのだった。
設立して間もなくは苦戦を強いられ、苦渋をなめる時期が続いたものの、ある楽曲が形勢逆転の救世主となる。米国でヒットを飛ばした映画「卒業」で挿入曲として使われた楽曲『サウンド・オブ・サイレンス』(サイモン&ガーファンクル)である。連日プレスと配送が繰り返され、契約店はみるみるうちに増えていった。
1968年10月、CBS・ソニーレコードが国内第9番目のレコード会社として、日本レコード協会に正式に加盟した頃、レコード市場は好況期に入っていた。電気店や書店、出版社の参入により新しい販路が拡大されたことや、テレビ、ラジオ、有線放送でのプロモーションが大きな要因だった。洋楽販促の手法も、レコード会社の担当者がラジオ局にレコードを持ち込み、番組でかけてもらうレコードメーカー主導の形が通例となっていた。そこでCBS・ソニーレコードは深夜のDJ番組に狙いを定めた。「この曲は絶対売れるよ」と何度も依頼し、同じ曲を繰り返し流すと、そのレコードの売り上げが伸びてくる。『ミスター・マンディ』(オリジナル・キャスト)をはじめとする、多くのヒット曲がこうした販促を機に生まれていった。
邦楽部門でも"スター"をつくり出そうと懸命な努力が続けられた。設立2年目の1969年には、『時には母のない子のように』を歌ったカルメン・マキが第20回NHK紅白歌合戦に出場を果たし、この曲で初のミリオンセラーを達成。さらに同年、『夜と朝のあいだに』でデビューしたピーターが日本レコード大賞最優秀新人賞に輝いた。CBS・ソニーレコードは創業2年目にして、輝かしい勲章をいくつも手にしたのである。
そして翌1970年、"ソニー演歌の騎士"のキャッチフレーズでデビューした、にしきのあきら(錦野旦)が『もう恋なのか』で、日本レコード大賞最優秀新人賞を獲得。CBS・ソニーレコードとして2年連続の栄誉に、社員たちは喜びを分かち合った。
1970年代初頭は、日本の音楽市場において「アイドル」というジャンルが確立した時代でもあった。1971年6月、南沙織が『17歳』で鮮烈なデビューを果たし、その年の日本レコード大賞新人賞を獲得。続いて同年10月には、「ソニーの白雪姫」と称された天地真里が『水色の恋』で登場すると、『ちいさな恋』、『ひとりじゃないの』などの楽曲が連続してヒットチャート1位を獲得するなど、アイドルブームの先駆けとなった。
この流れを受け、女性アイドルの育成とプロモーションに力を入れたCBS・ソニーレコードでは、次々とスターが誕生していく。1973年4月には浅田美代子が『赤い風船』でデビューし、翌5月には14歳の山口百恵が『としごろ』をリリース。そして同年9月には、当時テレビ番組でラン、スー、ミキの愛称で親しまれていた3人が「キャンディーズ」として『あなたに夢中』でアーティストデビューを果たした。
一方で、1972年8月には郷ひろみが『男の子女の子』で登場し、男性アイドルの路線も確立。若年層をターゲットにポップスを中心とした戦略を展開し、邦楽市場において大きな成功を収めた。
第3節 成長するCBS・ソニーグループ

EPIC・ソニー創業時の人材募集広告(1978年6月18日 朝日新聞)
CBS・ソニーレコードとして事業を開始してから丸3年がたった1971年3月、一つの会社が誕生する。通信販売を目的に、CBS・ソニーレコードが全額出資して設立した、CBS・ソニーファミリークラブである。当時、レコード店のメインユーザーは10代、20代を中心とする若者世代が大半を占めており、「それ以上の年齢層は店頭でゆっくり商品を探す暇がない。また、若者ばかりの店内に入ることに気後れしているはずだ」と考え、潜在的カスタマーの開拓を図った。CBS・ソニーレコードは、レコードメーカーとしては後発であったにもかかわらず、設立からまもなく本格的に通販に乗り出したのである。
「10倍のフィールドがあれば、10倍の人が生き生きと働ける。自分たちが味わった新しい会社という白いキャンバスに絵を描く喜び。これを一人でも多くの社員に味わってほしい」。予想をはるかに上回るスピードで新会社の基礎づくりを成し得た大賀・小澤の思いは、このCBS・ソニーファミリークラブ設立を皮切りに、レコード産業をベースとした「分社化」の形で結実していく。多角化経営の出発点である。
会社設立から5年を迎えた1973年、CBS・ソニーレコードはさらなる事業領域の拡大を視野に、社名を「CBS・ソニー」へと変更する。「レコード」の看板を外したのだ。そして1974年4月、出版部門を独立させ、エイプリルミュージックが誕生。さらに、同年8月には製造部門として出発した静岡工場が分離独立して、CBS・ソニーの全額出資で「CBS・ソニーレコード(株)」として発足するなどし、1976年には5つのグループ企業を有するまでになっていた。企画・制作から宣伝、製造、販売までを一貫して行える音楽企業を見据え突き進んだ結果、業界でも上位の売上を誇るレコード会社グループへと成長した。
10周年目の1978年8月、あるレコード会社の創立記念パーティが開かれた。掲げられた社名は「EPIC・ソニー」。CBS・ソニーが全額出資してスタートした"もう一つ"のレコード会社である。目的はCBS・ソニーのライバルをつくること。大賀は会社の規模が大きくなるにつれて社員に安心感が広がることを懸念しており、新たな競争相手を自ら生み出すことが最善だと考えたのだ。さらに、レコード会社を2社に増やすことで、市場におけるグループ全体の売り上げシェアを拡大するという狙いもあった。
その目論見は当たった。同年、両社の合計売上高が、グループとして業界第一位を記録したのだ。CBS・ソニーレコードを設立した際に大賀が掲げていた「10年で日本一のレコード会社に」が実現した瞬間であった。
CBS・ソニーの快進撃は続く。翌1979年には、ジュディ・オングが歌った「魅せられて」がグループ初の『日本レコード大賞』を獲得。そしてこの年、総売上高は過去最高を記録した。名実ともに日本一のレコード会社となったのだ。EPIC・ソニーの設立という成長戦略の傍らで、大賀は多角化経営をさらに推進し、新陳代謝を促していく。1978年にキャラクター商品などを扱うソニー・クリエイティブプロダクツ、1979年にはCBS・ソニー出版が設立され、それぞれが、大賀の後任として1980年に社長に就任した小澤のもとで育っていった。創立から15年が経過した1983年、CBS・ソニーは「CBS・ソニーグループ」へと社名を改めた。
そして、20周年目の1988年、グループはさらに大きく舵を切る。分社化から一転して、グループ企業の完全子会社化や吸収合併を実施したのだ。大きな狙いは企業運営の効率化と、株式上場への条件を整えることだった。あらゆる方向に枝葉を伸ばしていたCBS・ソニーグループは一枚岩となり、総合的なエンタテインメントカンパニーへと着実に歩みを続けていく。
大賀は常々、「会社は配当を開始した日が元服で、上場は会社が成人することに当たる」と社員に語っていた。会社が完全な経営のもと成り立っていることを社会的にアピールし、株式の資産価値を高める点において、株式の上場は大きな意味を持っていた。
幾度もの審査官のヒアリングや工場視察など足掛け4年を経て、大賀の願いは達成される。1991年4月、(株)CBS・ソニーは社名を(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントに変更し、同年11月、東京証券取引所市場第二部へ上場を果たしたのだ。公募価格は6,800円、調達金額1,224億円。当時としては巨額の調達であり、市場関係者からは「"池の中の鯨"だ」といった声が聞かれるほどであった。初値は公募価格を下回るスタートであったものの、その後株主還元や順調な業績推移が評価されていき、上場から1年かけて公募価格を超える株価をつけるに至った。