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第2章
トリニトロンカラーテレビの開発

第1節 井深が夢に見たトランジスタテレビ

トランジスタラジオの発売からおよそ4年が過ぎた1959年初め、井深はある週刊誌のインタビューでその年の抱負を語った。「私の正月の夢は、トランジスタテレビの出現である」。この夢は年の暮れに、正夢となる。だが、そこに至る道のりは簡単なものではなかった。
同じトランジスタの名称がついても、ラジオとテレビは根本から中身が違う。ラジオと比べて高電圧、大電流の回路が多いテレビに搭載するには、既存のものより格段に性能の高いトランジスタを用意しなければならなかった。つまり、一から研究をやり直す必要があったのだ。だが、井深が夢を語る約1年前には、すでに半導体部の技術者たちはテレビ用トランジスタの開発に着手していた。
しかし、装置の難易度の高さなどから開発は一筋縄では進まない。テレビに搭載するトランジスタの試作には1年以上を費やすこととなった。同時に進めていたテレビ回路の研究も、求められる厳格な条件になかなか対応できず、再三失敗を重ねた。ようやくチューナー用として4チャンネル以上12チャンネルまで受像可能な「ゲルマニウムメサ型トランジスタ」が完成したのは、世間に世界初のトランジスタテレビが発表される、わずか1カ月前のことであった。
こうして新たに開発されたトランジスタを搭載した画面サイズが8インチのTV8-301は1960年5月に発売された。
井深たちは立ち止まることなく、次なる構想と開発に取り掛かる。「8インチでは大きすぎる」。さらに小型で高性能なテレビを追い求め、5インチを目標に掲げた。ブラウン管の小型化やさまざまな技術的課題が山積する中、やはり、難航したのは適合するトランジスタの開発であった。さらに従来よりも厳しい製造技術が要求されるためしばらく歩留まりは上がらず、設計と試作の工程が幾度となく繰り返された。
ようやく量産前の中間試作を終えたのが、1961年11月。「このテレビは普通の据え置き型テレビの概念では理解できない、新しい用途のテレビだ」。通称をポータブルテレビとしていたTV8-301をさらに小さくしたサイズを踏まえ、井深はこれを「マイクロテレビ」と命名した。
「トランジスタがテレビを変えた」というコピーとともに売り出されたTV5-303は、評判のわりにあまり売れなかったTV8-301に比べ国内外でヒット商品となり、米国向けには航空便で出荷するほどの人気商品になっていった。

第2節 人のやらないことをやる

カラーテレビの技術は、1950年代ごろから、多くの人によって研究が重ねられてきた。ソニーがトランジスタ式白黒テレビTV8-301を世に送り出した1960年ごろには、一般的なカラー受信機として米RCA社が開発したシャドーマスク方式のブラウン管テレビが広く用いられるようになっていた。
「どうせやるなら、シャドーマスクではやりたくない」。井深のその方針の裏には、「ソニーはイノベーターである」との自負心があった。代わりとなる方式を探すこととなり、そこで最初に目をつけたのが、クロマトロン技術だった。
ソニーとクロマトロンの出会いは1961年3月、ニューヨークで開かれた技術展示会「IREショー」である。出展者として参加していた木原は、会場の一角にIFFと呼ばれる、軍事用のカラーディスプレイが展示されているのを見つけた。これまで見たことのない明るさに「我々が探していたものはこれではなかろうか」と、そんなひらめきを覚えた。そしてクロマトロンの可能性を育てると決め、開発に明け暮れる日々をスタートさせるも、開発チームは前途多難の道を進むこととなる。明るい画面を映し出す点において原理的には優れていても、当時の製造技術では採算がまったく合わなかったのだ。
1964年9月、製造コストや歩留まりの悪さなど依然として複数の問題を抱えながらも、クロマトロンは一応の完成を迎える。新方式のカラーテレビとして報道関係者に公開されると、テープレコーダー・トランジスタラジオ・トランジスタテレビ・VTRと共に、ソニー第5の商品として各方面の注目を浴びることとなった。しかし、世間に発表した以上、何としてでも残る問題を解決し評価を得なくてはならない。開発陣の苦悩は深まっていった。
だが、絶縁作業や蛍光体の焼き付けといった、難易度が高いうえに膨大な時間を必要とする工程があまりにも多かった。生産性は上がらず、費用も青天井に膨らむ始末だった。「諸君、シャドーマスクを、もういっぺん考え直さなくてもいいかね」。強気で鳴らしていた井深が、ついに弱音をこぼした。それほどまでに、ソニーは追い込まれていたのだ。クロマトロンをつくればつくるほど、損失が大きくなっていく。到底、第5の商品だと宣言することはできなかった。

第3節 トリニトロンカラーテレビの誕生

クロマトロンの歩留まり改善の目処が立たぬまま、時間だけが過ぎていった。「この逼迫した状況は社長である自分の責任だ」と考えた井深は「クロマトロンに代わる方式を探ってみよう。今度は自分自身が開発リーダーとして最初から最後まで立ち会う」と決意を固めた。それが井深流の責任の取り方でもあった。経営者としてではなく、技術者としての意地を見せる井深の姿に、盛田も「他のことは私がすべて考えます。思う存分やってみてください」と、サポートを申し出た。その日から、井深の姿は開発の最前線にあった。
1966年夏、市場調査のため吉田進は米国へ渡った。現地で吉田は、改良の進むシャドーマスク方式の現状に衝撃を受けた。従来よりも画面が格段に明るく生まれ変わっているだけでなく、既に月産2万台の量産体制を確立させていたのだ。当時月産1,000台にしか満たないクロマトロンとの差は歴然であった。「1966年中に歩留まり改善のめどが立たなければ、クロマトロンを諦めることも考えなくてはならない」。社内ではシャドーマスクへの方向転換についても検討が進められた。
それでもなんとか独自方式で挽回する手はないか。転機となったのは、吉田のひらめきだった。「1本の電子銃から、電子ビームを1本でなく、3本走らせることはできないだろうか」。吉田は渡米時に視察した、GE(ゼネラル・エレクトリック)の技術ポルトカラーにヒントを得た。本来は小型テレビ向けに開発された技術であるため、「大型に転用するのは非常に難しい」「気は確かか」と現場の技術者たちからは冷ややかな反応が向けられたが、実験を試みると、思いがけない好結果がもたらされた。光明が差した瞬間であった。
改良した電子銃をシャドーマスクと組み合わせてみても、結果は上々。ただ、このままシャドーマスクを採用すると、新しい電子銃の技術が埋もれてしまう恐れがあるだけでなく、クロマトロンの失敗が強調されることにもなりかねない。シャドーマスクよりも画質特性のよい方式を模索する日々が続いた。その間、井深は毅然とした態度で現場と向き合い続けた。「うちの技術者は、世界一だ。できないはずがない」。そしてついに、薄い金属板に細い縦孔を並べたアパチャーグリルの概念にたどり着いたのだった。
しかし、「これは良い」と思った矢先、実用化の段階でトラブルが発生した。アパチャーグリルの金属テープが振動して電子ビームの狙いが定まらず、色むらが生じてしまうのである。そんなピンチを救ったのは、井深であった。タングステン線を横に張ることで、問題だった振動を止めることに成功したのだ。
その後開発は軌道に乗り、1967年10月16日、ついに新しい方式のカラーテレビが完成した。1つの電子銃から3本のビームを発する「1ガン3ビーム」、すだれ状の金属板を使用する「アパチャーグリル」、そして歪みの少ない管面──。シャドーマスクにはない特徴を持ち、美しい色彩で、明るくくっきりとした画像を映し出すこの新方式は、「トリニトロン」と命名された。1968年10月にトリニトロン方式による第1号機KV-1310を日本で発売。当初生産を行っていた大崎工場だけでは生産が追いつかないほどの人気を博し、新たな時代を切り開く立役者となった。
それから5年が経過した1973年。海外での需要も増え、現地生産も進んだころ、井深のもとにうれしい知らせが届いた。テレビ界で最高の栄誉とされるエミー賞に、ソニーのトリニトロン方式によるカラーテレビ関連の技術が選ばれたのである。テレビ受像機として、また日本企業としての受賞は初めてのことであった。授賞式に出席した井深は金色に輝くトロフィーを掲げ、喜びを噛み締めた。

トリニトロン方式とシャドーマスク方式の違い。シャドーマスクは3本の電子銃からそれぞれビームが出て、ドット(丸い穴)を通って蛍光体にビームがあたり発色する。トリニトロンは1本の大口径電子銃から3本のビームが出て、すだれ状の縦長のスリット(アパチャーグリル)を通って蛍光体にあたり発色する。