第3章
ウォークマンによる新しい市場の創造
第1節 井深の要望
ソニーが日本で初めてのテープレコーダーG型と磁気テープSoni-Tapeを世に送り出したのが1950年。官公庁、学校、放送局、そして家庭へと普及していった。
これらのテープレコーダーは磁気テープがむき出しで扱いが難しいオープンリール方式だったが、1960年代に入ると、小型で取り扱いが容易なカセット方式の必要性が高まっていた。
実は、ソニーも2個のリールを重ねたテープをケースに収めた「ベビーコーダー」を1957年に発売していたのだが、残念ながら広く普及するところまではいかなかった。皆が手軽に使える「カセット」の世界のスタンダードをつくらなくてはと考えたソニーは、他社と協業して世界規格化を推進していく方向に舵を切っていた。
そんな折の1963年9月、グルンディッヒ社が、ドイツのメーカー3社で考案した「DCインターナショナル」というカセットを、オランダのフィリップス社が「コンパクト・カセット」を、ともに規格化しようと働きかけてきた。当時、製造第二部長だった大賀が選んだのは少し小さかったフィリップスの「コンパクト・カセット」の方だった。
両社による契約の段階で、ロイヤリティーが問題となった。大賀はフィリップスの提示した額に納得せず「無料にしないならグルンディッヒと契約する」と伝えた。フィリップスは折れ、結局ソニーには無料ということになった。しかし、独禁法や信頼感の問題を考えるとソニーだけ無料という訳にいかない——1965年、フィリップスは、互換性を厳守することを条件に、全世界中のメーカーを対象に基本特許の無償公開に踏み切った。
コンパクト・カセットを使ったソニーのカセットテープレコーダー第1号機は、1966年発売の「TC-100」(マガジンマチック100)。その後ラジカセなどの複合商品も登場し、コンパクト・カセットを使った音楽の楽しみ方はどんどん広がり、家庭やカーステレオなどで広く親しまれていった。
しかしこの頃、気軽に持って歩けるタイプのテープレコーダーは、まだスピーカー内蔵のモノラル再生タイプに限られていた。
ソニーは1978年、小型でステレオ録音・再生ができる「TC-D5」を発売したが、教科書サイズとはいえ1.7キロとかなり重く、気軽に持って歩けるとは言い難かった。音楽好きな井深もこのTC-D5をヘッドホンと一緒に海外出張に持って行き、飛行機内でステレオ音楽を聴くのを楽しんでいたが、やはり「重くてかなわない」と嘆いていた。
ある時、米国への出張を控えた井深は、「『プレスマン』に、再生だけでいいからステレオ回路を入れたのを作ってくれないかな」と大賀に持ちかけてきた。「プレスマン」とは、1978年にソニーが発売したスピーカー内蔵でモノラル再生のテープレコーダーで、手のひらに乗るほどの小型化を実現した商品だった。
大賀は井深の依頼をテープレコーダー事業部長の大曽根幸三に伝え、大曽根がエンジニアに指示してプレスマンから録音機能を取り去り、ステレオで聴けるように改造した。それにありあわせのヘッドホンを付けて、エンジニアたちと音を聴いてみた。なかなか良い音がすると感心していると、そこに井深が現れた。井深もヘッドホンで音を聴き「小さいのに良い音が出るじゃないか。本当に良い音を聴くには無駄なく音を拾うヘッドホンがいいんだよ」とうれしそうに言った。
改造した「プレスマン」とヘッドホンを携えて海外出張に出かけた井深は帰国後、すっかり気に入った様子で盛田の所へ改造機を持っていった。「これ聴いてみてくれないか。歩きながら聴けるステレオのカセットプレーヤーはどうだろう」。試してみると、盛田もまた気に入った。「確かにスピーカーで聴くのとは違った良さがある。しかも持ち運びができて自分一人だけで聴ける。これは面白い」。ここで、盛田の独特なビジネスの勘が働くことになる。

TC-100とコンパクトカセット(1966年)

プレスマンを改造したウォークマンのプロトタイプ(1978年)
第2節 盛田の直感
1979年2月、盛田は電気・メカ設計のエンジニア、企画、宣伝・デザイン担当者など若手社員を招集した。盛田は改造した「プレスマン」を手にこう言った。「この商品は、一日中音楽を楽しんでいたい若者の願いを満たすものだ。外へ音楽を持って出られるんだよ。録音機能はいらない。ヘッドホン付き再生専用機として商品化すれば売れるはずだ」。そして、盛田はこう続けた。「若者をターゲットとし、夏休み前の発売で、値段はプレスマンと同じくらい、4万円を切るつもりで」。発売までの猶予はたった4カ月。それまでに量産体制も、販売側の受入体制も整えなければならなかった。
この盛田の指示に対しほとんどの出席者は難色を示した。しかし反対はしてみたものの、「何だか使ってみたいな」と気になる商品でもあった。確かに学生が夏休みに入る前に発売するのがタイミングとしては望ましい。「困難ではあるが、不可能ではない。やってみよう」と、話がまとまった。「今年は33周年だ。3万3,000円でいこう」。盛田のこの一言で価格も決まり、夏休み前の発売に向けて走り出した。
「若い人は、いつでもどこでも音楽が聴きたいものだ。もう音楽は、家庭内のステレオの前から解放されるのだから。でも、本体より大きいヘッドホンが付いていては格好が悪い。何とかならないものか」。盛田の言葉に、井深が思い出したように言った。「そういえば、2、3カ月前の研究開発報告会で、確かオープンエアータイプの軽いヘッドホンをやると言っていた」。
技術研究所をあたってみると、当時世界最軽量の小型ヘッドホン(のちの「H・AIR」)を開発していた。当時のヘッドホンは軒並み300〜400グラムだったが、この小型ヘッドホンはわずか50グラム。耳に当てる部分のドライバーユニットの口径も23ミリ。当時各社が出していた楕円形の密閉型のヘッドホンは、口径50ミリ以上だったので、それに比べるとはるかに小さいが、そこから飛び出すステレオサウンドは素晴らしい。
「一緒にやりなさい」。井深と盛田は、互いの存在を知らずに別の部門で開発していた2つの技術を結びつけた。1979年3月から、ステレオ再生機と小型ヘッドホンの2つの開発チームが一緒に歩み出すことになった。
第3節 新たなコンセプトが市場を創る
「初めて世に出し、コンセプトを問う1号機に故障が多くては絶対に駄目だ。壊れやすいというイメージを持たれてしまったら、コンセプトごと否定されてしまう」。大曽根はそれまでの経験を通して、そう確信していた。それに今回は時間も限られていた。盛田の助言もあり、第1号機のメカには、すでに50万台生産の実績のあるプレスマンのメカをそのまま流用した。
この1号機開発には、技術的な苦労はほとんどなかった。新しいコンセプトの下に高篠静雄を始めとする設計メンバーは既存の技術を組み合わせ、信頼性を重視しながら形にすることにすべての力を注いだ。
一方で、これまでになかった商品であることから「このコンセプトが果たして世に受け入れられるか」「そのためにはどう売り込んでいったらよいか」というほうに懸念があった。まずネーミングだが、当時映画『スーパーマン』が流行っていたことと、ベースになった機種が「プレスマン」だったことから、広告宣伝部の若手社員がこの商品を「ウォークマン」と名付けた。屋外へ持ち出して、歩きながら、動きながら楽しむというコンセプトにも合う。社内では、英文法的におかしいという意見もあったが、盛田は考えた人たちの意志を尊重した。「使うのは若い人だ。若い人たちがそれでいいと言うのだからいいじゃないか」。名前は「ウォークマン」に決定した。
一方でこの「ウォークマン」には、社内に否定的、悲観的な意見も根強くあった。「テーププレーヤーなんて聞いたことがない。録音機能が付いていないから絶対に売れませんよ」。営業部から反対意見が出たが、盛田は自分の直感を信じていた。
盛田の指示で、最初の生産台数は3万台に決定した。当時テープレコーダーはひと月に1万5,000台も売れればよいほうであったから思い切った台数だ。不安を抱えながらも準備が進み、いよいよ6月22日、発表の日を迎えた。
音楽を外へ連れ出すという新しいコンセプトを広めるため、マスメディアへの発表の仕方にも知恵を絞った。銀座のソニービルに集まった記者たちをバスに乗せ、バスの中で新商品そのものを配った。バスが代々木公園に到着すると「お渡しした商品の再生スイッチを入れてください」というアナウンスがあり、ヘッドホンから、音楽と共に新商品「ウォークマン」の商品説明がステレオで流れた。公園の広場ではヘッドホンの音声に合わせて、「ウォークマン」とプリントされたお揃いのTシャツを着た宣伝部のスタッフやアルバイトの学生が、「ウォークマン」を身に着けてジョギングをするなどのデモンストレーションを行った。
しかし、マスメディアの反応は冷ややかだった。新聞ではほとんど記事にならず、記事になったとしても数行程度だった。7月1日に予定通り発売したものの、7月末までに売れたのはわずか3,000台程度だった。ヘッドホンをつけて街を歩くという新たなスタイルは、すぐには理解されなかった。そこで宣伝部や国内営業部のスタッフたちは発売に先駆けて、「ウォークマン」を身に付けて山手線に乗り込み一日中ぐるぐる回り、人々の目に触れさせる作戦を始めた。日曜日になると新宿や銀座の歩行者天国へ繰り出した。そして、「ウォークマン」を身に付けて歩き、通りがかった人に「ちょっと聴いてみます?」と声をかけた。高校、大学の体育祭や文化祭にもよく出向いた。最初はけげんそうな顔をしても、ヘッドホンを付けて音を聴いてみると、若者は驚きの表情に変わる。販売側では、特約店のスタッフにデモテープを入れた「ウォークマン」を身に付けて店内を歩き回ってもらい、やはり「ちょっと聴いてみてください」とお客さまに働きかけてもらった。
こうした地道な取り組みの一方で、当時のアイドル歌手らが「ウォークマン」で音楽を楽しむ姿が雑誌にも取り上げられるようになり、若者の間で認知が急速に広がっていった。7月後半になると状況は一変し、8月末までには初回生産の3万台が売り切れる大盛況となり、生産が追いつかなくなった。何度も増産するも、品切れ店続出という状態が6カ月間も続いた。
国内から半年遅れで、海外でも売り出すことになった。ところが最初に懸念していた通り、海外の販売会社が「ウォークマン」は英語ではない、こんなネーミングは使いたくないと言い出した。その結果、米国では「サウンドアバウト」、英国では「ストウアウェイ」(密航者という意味)、オーストラリアでは「フリースタイル」と、「ウォークマン」の他に3つの異なった名前が誕生してしまった。ところが、盛田が海外へ出張に出かけると、多くの人から「日本で売られている『ウォークマン』が欲しい」と言われる。どうやら海外でも有名になっているらしい。「もう『ウォークマン』という名前が通っている。世界中で『ウォークマン』に統一してしまおう」。盛田は1980年4月に米国で開かれたセールスコンベンションでネーミングの統一を宣言した。後にこの判断の正しさは証明された。この和製英語「ウォークマン」は、1986年にはイギリスの辞書『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』にも掲載されたからだ。他社からも類似の商品が次々に発売された結果、「ウォークマン」はヘッドホンステレオという全く新しいマーケットをつくり出した。そして1号機の発売から40年後の2019年までに、カセットテープやCD、MD、メモリータイプをあわせた販売台数は累計4億台以上に達した。
一方、「ウォークマン」1号機と共に誕生した小型軽量ヘッドホンはその後独自の進化を続けた。1982年には直径16ミリの超小型ドライバーユニットを採用した、世界初のインナーイヤーヘッドホンを発売。1992年には民生用として初のノイズキャンセリング機能搭載モデルを発売した。また、2017年には完全ワイヤレスモデルを市場導入。現在ではヘッドホンを装着して歩くスタイルは日常の風景として定着しているが、それはさかのぼれば「ウォークマン」1号機と付属のヘッドホンが生み出したものと言える。

小型ヘッドホン「H・AIR」1号機 MDR-3(1979年)

ステレオカセットプレーヤー「ウォークマン」1号機 TPS-L2(1979年)

「ウォークマン」1号機 TPS-L2の発表会(1979年)