第4章
ソニーグループに金融機関を持ちたい
第1節 盛田がシカゴで描いた金融事業への夢
1950年代後半、米国にトランジスタラジオを売り込むためにシカゴを訪れた盛田は、当時米国最大の生命保険会社「プルデンシャル」の巨大なオフィスビルを目の当たりにして驚いた。なぜ生命保険会社があんなに大きいビルを建てられるのか。やがて、盛田は一つの結論にたどり着いた。「あのビルは彼らの商品であるお金の倉庫のようなものだ」。
同時に盛田の中に芽生えたのは、この時まだ小さな企業集団に過ぎなかったソニーにとって、壮大ともいえる夢だった。「ソニーグループの金融機関は、今後新しい企業集団として生まれ変わるために、企業の信用やバランスを保つ存在になるだろう。ぜひとも実現して、いつかあんなビルを建てたい」。
そんな「夢」の実現に向けて事態が大きく前進したのは、時代を下った1975年春のこと。50年代に憧れのまなざしで見上げたシカゴのオフィスビル──その持ち主であるプルデンシャル社のマクノートン会長が盛田の元を訪れたのである。2人はニックネームで呼び合う旧知の間柄。同時に、プルデンシャル社はソニーの大株主でもあった。この時盛田が持ちかけた「日本で生命保険ビジネスをやらないか」という提案に、マクノートン会長は大いに関心を寄せ、日米の異業種間で協業が進められていったのである。
畑違いにも思える生命保険ビジネスであったが、盛田には確信があった。「英語では『保険を買う』と言うし、日本でも『保険の新商品』と言う。新商品を開発してそれを売るというなら、従来のエレクトロニクス事業と基本は一緒だ。我々らしい商品開発とマーケティングを行おう」。
盛田の指揮の下、のちにソニー生命の経営を担うことになる伊庭保、安藤国威らを中心に、生命保険業界の仕組みや国内市場の調査が進められた。その後、業務部長や外国部長を長く務めてきた四元徹郎をリーダーとして数名のスタッフを加えて、「国際資金調査室」が発足。彼らがプルデンシャル社と合同で設立準備に着手したのは、翌1976年のことだった。
第2節 「護送船団」を乗り越えて
この合同プロジェクトチームの課題は2つあった。大蔵省(現 財務省)の認可取得と、新しい生命保険会社の経営方針の企画だ。大蔵省の認可取得に関しては他社で前例があったので、実現は比較的容易なはずだと盛田や準備チームのメンバーは考えた。だが、実際には「ソニー・プルーデンシャル生命保険株式会社(1980年2月に「ソニー・プルデンシャル生命保険株式会社」に商号変更)」の内認可まで3年、事業免許がもらえる正式認可までにはさらに2年の歳月を要した。「夢」の実現は、前途多難だったのだ。
難航の原因はどのようなものだったのだろうか。実は、当時の日本では、大蔵省銀行局保険部の厳密な管理の下、大手と中小の生命保険会社が共存できるように過度の競争を制限した、いわゆる「護送船団方式」と呼ばれる保護政策が敷かれていた。一方、米国の保険業界では各社が熾烈な自由競争を展開していた。その中で大手企業として名の知られていたプルデンシャル社の日本進出には、各社が警戒感を示したのだ。
実際、ソニーとプルデンシャル社合同の生命保険会社が目指したのは、プロフェッショナルな営業社員によるライフプランニングに基づき、お客さま一人ひとりに最適な「オーダーメイドの生命保険」をお届けするという、日本では全く新しいシステムだった。しかしこれが、従来の日本の生命保険の販売手法と直接競合すると捉られたのだ。この懸念を払拭すべく、盛田とプロジェクト室のメンバーは「新しい営業システムは、あくまで新しい市場を開拓するためのものである」と、認可が得られるまで大蔵省へ何度も足を運んだ。
こうして構想から5年の1981年2月、ついに大蔵省正式認可が下りた。プロジェクトメンバーと喜び合いながら、「保険会社はお客さまが増えていけば非常に安泰な金融事業だが、そうなるまでには大変な苦労が必要だ。私の望んだ形になるには20年かかるだろうが、『あの時保険事業を始めてよかった』と思うようになると確信している」と盛田は語った。

(左から)盛田、視察のため来日したプルデンシャル社ベック会長(1981年)
第3節 ライフプランナーの活躍と「ソニー生命」の誕生
「きょうから生命保険が変わる。ライフプランナーが変える。」。こんな新聞広告を掲げ、1981年4月1日、ソニー・プルデンシャル生命保険は営業を開始した。資本金は30億円ながら、盛田会長、平井龍明社長、安藤国威常務以下、本社部門および首都圏に設立した4つの支社を合わせて総勢約90名という小さな規模での出発だった。同社は、ニードセールス(顧客の必要性に応じた保険設計)を重視するプルデンシャル社の経営哲学を継承した上で、営業社員制度や商品のノウハウも受け継ぎ、そこにソニー独自のアイデアを加えて、日本の生命保険業界の常道とは異なった独自のシステムをつくっていった。
目指したのは、いわばオーダーメイドの保険である。具体的には、金融・財務の高度な知識を持つプロフェッショナルな営業職員を育て、お客さまの必要性に応じて「質」と「効率」の高い保険の販売をしようと考えた。これからの高齢化社会も視野に入れた新しい時代の営業職員は、お客さまのニーズを分析し、その生涯(ライフ)を設計(プラン)する責任と能力を有する、高度なプロフェッショナルの専門職であるべきだということで「ライフプランナー」と名付けられた。ライフプランナー第1期生には、生命保険以外の分野においてセールスに実績のあった人材27名が採用された。彼らの報酬体系には実績に基づくフルコミッション制が取り入れられた。「独立起業家精神」(アントレプレナーシップ)とも形容できるマインドを持ったライフプランナーは業界他社の保険販売員と比べても驚異的な活躍ぶりを発揮し、ソニー・プルデンシャル生命保険の成長を支えた。
その後、1987年9月には社名が「ソニー・プルコ生命保険株式会社」に変更された。その背景には、日本における100%子会社をつくりたかったプルデンシャル社の思惑があった。同社が100%子会社の設立に向けて、株式を全額引き取りたいと申し入れてきたのに対し、盛田はプルデンシャル社や大蔵省と粘り強く折衝。その結果、ついにソニーとその子会社および創業以来のメインバンクが、総株式の70%を譲り受けることで話をまとめたのだ。プルデンシャル社は子会社のプルコに30%の株式を残したものの、経営には関与しないという約束をソニーと交わした。これによってソニー・プルコ生命は、実質的にはソニー100%子会社の生命保険会社となった。盛田は30年来の夢である「ソニーの金融機関」に一歩近づいたのである。
そして1991年4月。保有契約高が2兆円、総資産が900億円を超えた記念すべきこの年、ついに社名から「プルコ」の3文字が外れ、正式に「ソニー生命保険株式会社」になった。1993年3月期には、営業開始から13年目にして念願の単年度黒字化を達成。「望んだ形になるまで20年はかかるだろう」と盛田自身が口にしていたソニー生命は、こうして予想以上のペースで成長を遂げ、名実共に「ソニーの金融機関」としての歩みを進めていった。2008年のリーマンショック以降、経営が最も苦しかった時代にも同社はソニーグループを支えた。
ソニー・プルデンシャル生命の開業式に盛田は、社員を前にこう語った。「日本には非常に歴史の長い保険会社がたくさんあります。そういった会社の『社風』をそのまま持ってきて『保険会社というのはこういうものだ!』と、いうようになっては、私の希望はつぶれてしまいます。我々としては、やはりここに新しい、本当に日本に今までなかったような保険会社を創りあげたい、また、創ってほしいというのが私のお願いであります」。
「ひとのやらないことをやる」というソニー・スピリッツを胸に、ソニー生命は着実に成長を続け、2006年には、ソニーグループの本社機能が入居するソニーシティを建設。50年の時を経て、「いつかあんな大きなビルを建てたい」という盛田の夢をも叶えたのであった。
2026年現在、ソニー生命は金融ビジネスの大きな柱に成長している。

ソニー・プルデンシャル生命保険株式会社 営業開始の広告
(1981年)

ソニーグループの本社が入居するソニーシティ