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第5章
イメージセンサーの開発

第1節 CCD開発の苦難

1970年、中央研究所の越智成之は、同僚から手渡されたとある雑誌を熱心に読み込んでいた。掲載されている記事は、米・ベル研究所の研究者が同年4月に発表したCCD(電荷結合素子)の発明論文に関するもの。どうやらCCDの構造は、越智の本来の開発対象であるMOS素子と似ているらしい。「CCDの構造は簡単だが面白い。開発できれば使い道がいろいろあるかもしれない」。そう考えた越智は、MOSと並行してCCDの開発に着手した。
実験を重ねていくうち、越智はCCDをフォトセンサーとして使えば、受けた光を電気信号に変えて、外部に読み出すことが可能になることを発見した。実験は8画素から始め、その後8×8=64画素の画面に「S」の字を浮かび上がらせることもできた。CCDをカメラのレンズの奥に付ければ、「電子の眼」として、映像を取り込める。この技術がいずれ実用化すれば、画質が安定した小型で安価なカメラを大量に生産できるはずだ──多くの人がソニー製のカメラで、写真や映像の新たな表現を楽しめるようになる未来が、越智には見え始めていた。CCDの生みの親であるべル研究所でさえも開発を断念し、他社も息切れしていた1972年のことである。
当時副社長兼中央研究所の所長だった岩間和夫は、越智の取り組みを知ると「何としてでもモノにしろ」と本格的なCCD開発開始を指示した。米国駐在中にCCDの実物を見ていた岩間にとって、このプロジェクトは、かつてトランジスタの開発で世界をリードしながらも、その後は電卓用のMOS半導体開発から撤退するなどして勢いを失っていたソニーの半導体技術を再び世界のトップレベルに押し上げるためのまたとない機会に思えた。
岩間が競合として想定したのは、米国のフィルムメーカーであるイーストマン・コダック社だ。「なぜソニーとは畑違いのコダックが競合となるのか」。訝しむ越智らに岩間が提示したのは、「5年以内にCCDを使った5万円以内の小型で画質の良い電子カメラをつくる」という目標だった。岩間は「CCDを搭載したカメラとVTRは、隆盛を極めている既存のフィルム写真産業に対抗し、新たな市場を創造する可能性を秘めている」と考えていた。そこに至るまでの具体的な競合と厳しい目標を掲げることで、越智らに奮起を促したのである。こうして1973年11月、研究員やプロセスすべてが工場から中央研究所へ集結した。「電子の眼」であるCCDの本格的な開発が始まった。
追究したのは、感度や解像度といった基本性能だ。同時に、微小なゴミによって発生する黒点、重金属の汚染による白キズなど、画像欠陥の問題に対処する必要があった。開発に行き詰まった競合他社は次々とCCDから撤退し、従来のMOS型撮像素子の開発に戻っていった。しかしソニーは戻る場所がない。装置から何から一から始めなければならなかったが、背水の陣が、むしろ士気を高めた。
ただ、半導体開発には莫大な資金を要した。何度も開発中止が検討され、社内で肩身の狭い思いをする越智らを、岩間は時に叱咤激励しつつ見守った。岩間が静かに発した一言が、技術者に示唆を与えることも数多くあった。あいまいさや定性的に偏った返答を嫌った岩間に対し、技術者も自然と正確で定量的な答えを練り上げるよう訓練されていった。
一方、岩間にとってもこのCCD開発はかなりの勇気と忍耐を要した。目先の利益を追っていたら到底できない、多額な投資と時間が必要だ。実際、岩間も予算を承認する立場にいた大賀に「CCDに投資した資金は今世紀中に回収できるかどうか分からない」と口癖のように言っていた。どんなに時間をかけても成し遂げるという、岩間の覚悟の表れでもあった。
こうした岩間の後押しと越智ら技術陣の奮闘の中で、CCDの画素数は着実に増え、1978年には12万画素に達した。さまざまなハードルを乗り越え、欠陥のないしっかりした解像度の画を目の当たりにした時、岩間は「ようやくできたな」とひと言、つぶやいたという。
だが、CCDの量産化にめどが立った1982年、岩間は体調を崩してしまう。CCDの量産の開始、そしてそれを搭載した民生用カメラ一体型VTRの登場を誰よりも喜んだであろう岩間は、実物を見ることはできず、帰らぬ人となっていた。岩間の後を継いで社長に就任した大賀は、量産が始まると、最初の生産ロットの中からCCDチップを一つ持って、岩間の墓前へ報告に行った。そして、墓石の背面にそのCCDを貼り付けながら語りかけた。「岩間さん、あなたが情熱を傾けたCCDがとうとう量産できるようになりました」。後の7回忌に関係者が墓参した時も、風雨に耐えたCCDがその姿をとどめていた。

第2節 CCD量産化までの道のり

岩間の悲願だったCCDだが、その量産化への道のりは決して平坦ではなかった。
時を少し遡り1978年、開発から製造準備への移行に伴い、舞台は研究所から厚木工場に移った。ここでは12万画素のCCDの試験的量産が行われ、翌年ICX008として商品化された。この時までに使われた開発費は200億円という莫大な額だ。同年11月には、いよいよCCDカラーカメラの試作ラインが厚木工場内に設置された。
そして1980年1月、ついに世界初のCCDイメージセンサーICX008を心臓部に載せたCCDカラーカメラXC-1が、全日空のジャンボ機13機に搭載され、離着陸の様子を機内に映し出す「スカイビジョン」に採用された。しかしながら、この頃のCCDの歩留まりは非常に悪かった。数百個生産して1個合格するかどうかという状況であり、「これでは歩留まりではなく出現率と呼ぶべき」と担当者から評されたほどであった。こうした事情もあって、13機分のCCD計52個を用意するのに丸1年を必要とし、想定を大幅に超える製造コストを要した。
最大の敵は、肉眼では見えない数ミクロン以下のゴミやホコリである。開発・生産現場には、徹底した防塵対策を施したクリーンルームや、防塵衣が用意された。人や機械をはじめ、ホコリの発生源とされるところは、徹底的に対策がとられた。
必死の努力の末、ようやく歩留まりも改善し、1983年から鹿児島にあるソニー国分セミコンダクタ(現 ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング)で本格的な生産が始まった。しかし、ホコリとの戦いはこれでは終わらなかった。1985年のCCD-V8発売後、製造環境、製造装置、プロセス、材料、すべてにわたって無塵化が図られていたはずの国分の量産ラインをしても、まだ完全にホコリの根本的な原因を排除しきれなかったのだ。結局、これが原因でカメラ一体型8ミリビデオの新機種の発売時期を延期する事態になった。熾烈な競争をしている8ミリビデオにとって発売延期は命取りにもなりかねず、特約店からの反応も厳しかった。
「なんとしても、ホコリを根本から取り除かなければならない」。工場では全社員がホコリ撲滅に悪戦苦闘し、数十カ所に及ぶホコリの発生源をひとつずつ潰してしていった。現場の社員の地道な努力が実り、ついに歩留まりが回復し始めた。
こうした困難を経て、CCDはソニーの半導体事業を支える大きな事業に成長していくことになった。80年代は「3分の2インチができれば2分の1インチ」「25万画素の次は38万画素」というように小型化、高画素化が進んだ。90年代に入ると3分の1インチも登場し、また1インチ200万画素のハイビジョン用CCDも開発された。生産拠点の整備も進み、既存のソニー国分に加えて、同じ九州の地に設立されたソニー長崎でも1989年からCCDの生産が始まり、量産技術が磨かれていった。
外販用のCCD需要も、1988年頃から民生用カメラ一体型VTRを中心に拡大していった。1990年5月にはソニーのCCDの累積生産は1,000万個に到達。生産を開始してから11年目、累計500万個を達成してからわずか1年半で倍増という快挙であった。デジタルスチルカメラ、パソコン、セキュリティ、医療、ロボット、と、さまざまな用途にCCDの可能性は広がっていった。