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第6章
イメージングビジネスの黎明期

第1節 ベータマックスの誕生と「ビデオ元年」宣言

世界初の家庭用VTRとして発売されたCV-2000、そして同機の課題であった、カラー化・テープのカセット化・オートローディング化を解消した「Uマチック」。どちらも当時のソニーの技術を結集した商品であったが、両機とも家庭に広く普及するには至らなかった。カラーテレビの普及率が40%以下だった1970年代初頭には、「好きな映画やテレビの録画を自宅で楽しむ」という用途には時期尚早だったのである。
来る時代に備えて、次こそ一般家庭に広く浸透する「真の家庭用VTR」をつくらなければならない。その目標として「せめてこれくらいの大きさのカセットがいい」と井深が示したのは、文庫本サイズのソニー手帳だ。これに応えるように、開発陣は次のビデオテープレコーダーの開発に取り組んだ。
そして1975年、「Uマチック」のノウハウを活用しつつ、文庫本サイズのビデオカセットを使用した「ベータマックス」の1号機SL-6300が発売された。すでにカラーテレビの普及率は90%を超え、これまで放送を見逃せば視聴する手段のなかったテレビ番組も、録画すれば自由に自分の好きな時間に再生して楽しめた。盛田は、このコンセプトを「タイムシフト」と定め、大いに宣伝した。
翌1976年。ソニーの創立30周年でもあるこの年、盛田はVTR時代の到来を告げる「ビデオ元年」を宣言した。VTRの国内需要がまだ10万台未満という中での、思い切った宣言である。「本当にそんなに家庭用VTRが普及するのだろうか」と業界も半信半疑の中、その後の趨勢を決める出来事が起きた。U規格でソニーと手を結んだ日本ビクターが、独自につくった「VHS規格」のVTRを発表したのだ。
2つの規格の互換性はなかったが、ベータマックスは小型・高画質という点に利があり、一方のVHSは2時間という収録可能時間を特長としていた。この2つの規格が同時期に市場に投入されたことは、熾烈なフォーマット競争の始まりを意味していた。

第2節 「VTRの総合メーカー」を目指して

1979年、家庭用VTRの業界全体の生産規模は220万台に達し、「ビデオ元年」宣言から3年で約8倍に成長していた。盛田が宣言したビデオ時代は、確かに到来したのだ。
こうした状況の中、ベータマックス・VHS両陣営の新商品ラッシュは過熱し、高画質化、記録の長時間化、多機能化、操作性の向上などがハイペースで進んだ。VHS陣営の戦略は巧みだった。欧米家電メーカー大手への積極的なOEM供給や、豊富なソフトウエアタイトルなどにより、次第にベータマックスのマーケットシェアは下降していった。1988年、ソニーもVHSの発売に踏み切り、二方式併売で臨む方針を打ち出した。
かねて家庭用VTRの推進に尽力してきた副社長の盛田正明はその判断に至った経緯を、以下のように社員に説明している。「我々は意地でビジネスをやっているわけではない。ソニーのVHSが欲しいというマーケットの声に応えなければならない。たとえ一時つらい時期があっても、今後のビデオ事業の発展のためにはやるべきだと決断した」。
一方で、盛田はVTRをめぐるソニーのあり方に、新たな方向性を示した。「どうせやるなら、『VTRの総合メーカー』としてナンバーワンを目指そう」。社員を鼓舞したその言葉の通り、高画質録画に最適なベータマックス、コンパクトでパーソナルユースに最適な8ミリビデオそしてレンタルソフトビジネスに対応したVHSという、多様なフォーマットに対応できる点を強調した。
結果的に、ソニーは2分の1インチの家庭用VTRの規格統一を制することはできなかったが、規格統一の進め方について貴重な教訓を得た。
この後ソニーは「家庭で録画した映像を、家庭で楽しむ」という需要に対応するため、技術的な蓄積のあったカメラとデッキを一体型にした「カムコーダー」の開発を推進していくこととなった。

第3節 ニュース報道のあり方を変えたベータカム

1974年にソニーが「U マチックポータブルビデオカセットシステム」を発表して以来、ニュース取材はフィルムからENG(Electronic News Gathering = 電子ニュース取材)へと移行し、格段に効率性が上がった。しかし、ENGが現場に浸透するに従って、機材のさらなる小型化で機動性を上げたいという要望も強くなってきた。
こうした声に応じたのが、1981年にソニーが発表した業務用カメラ一体型VTR「ベータカム」である。「ベータカム」は、家庭用の「ベータマックス」と同サイズのカセットを使用しながら、放送局の厳しい要求に応える高画質・機動性を実現したフォーマットであった。1982年に発売された初号機BVW-1は、ソニーが1970年代から築いてきた放送機器ビジネスの技術的蓄積とユーザーからの信頼を背景に、世界中の放送局で急速に普及していった。
そして1983年に編集機能付きレコーダーBVW-40が登場すると、撮影から編集・送出までを「ベータカム」フォーマットで完結できる体制が整った。これによって「ベータカム」は単なる収録機器にとどまらず、報道現場全体を支えるシステムとしての価値を持つようになった。ついにはENG市場の約95%を占めるスタンダード機となり、圧倒的なブランド力を築いたのである。
1990年代に入ると、デジタル化の波が屋外取材の領域にも押し寄せた。ソニーはこの流れに対応するため、1993年にコンポーネント・デジタルVTR「デジタルベータカム」を商品化。従来のアナログ・コンポーネント方式のベータカムフォーマットとの互換性を維持しつつ、画像圧縮技術を導入することで高画質・低価格を実現した。
翌1994年にノルウェーで開催された第17回冬季オリンピックでは、「デジタルベータカム」を中心とした放送システムが一括納入されるなど、同機は国際的なイベントでも活躍を見せた。さらに1995年度には、「デジタルベータカム」が放送技術分野で最も権威ある「エミー賞」を受賞するなど、ソニーの技術に対する信頼と業界への影響力は、海を超えて広がっていった。

第4節 CCD-V8の発売と、新規格の競争激化

「Uマチック」や「ベータマックス」の開発、商品化からビデオ関連のビジネスは息つく間もなく次なる挑戦が始まった。これまでの「より高密度記録を、より小さく」という流れの中で、決定的な差異化を果たし、新たな市場を創出するため「ベータマックスの寸法をすべて2分の1サイズに」という大きな目標を掲げたのである。井深の要求は「どうせやるなら、記録密度も10倍に」。当時はちょうど、撮像管に代わり新しいカメラの「眼」になる半導体CCD(第2部第5章参照)が産声を上げ、歩き出した頃である。岩間からも「CCDカメラを使って録画・再生のできるカメラ一体型ビデオを作れ」という指針が示された。
一から開発を始めた後、1980年7月にソニーはニューヨークと東京で同時に「ビデオムービー」の開発を発表した。これは、CCD撮像素子を使用したカラーカメラと、8ミリ幅のテープを使用したビデオカセットレコーダーを一体化し、総重量2キロに収めた画期的な商品であった。そしてこの発表会には、商品を宣伝する以上の意味があった。「ベータマックスとVHSの教訓から、互換性のない規格の乱立は避けたい」——そんな思いもあって、次世代規格の統一を他社に呼びかけようとしたのだ。1982年3月には、この呼びかけに応じた世界122社が参加する「8ミリビデオ懇談会」が結成。規格統一の話し合いが進められ、1984年4月には規格が統一されるに至った。
こうした動きと並行して、開発、設計部隊は着々と8ミリビデオカメラ第1号機の開発を進めていた。1981年11月には、森尾稔をはじめとする開発メンバーは厚木工場へと拠点を移し、一足早く現地に着任していたイメージセンサー系の越智成之のグループと合流した。
厚木工場では、CCDが間に合わない場合を考えて、ソニーが商品化した独自の撮像管「トリニコン」の開発も同時に進められていた。しかし、トリニコンを使った完成品が出来上がりつつあった中、「もう保険をかけるのはやめて、よりきれいな画像を実現できるCCD一本でやろう」という基本方針が、越智らに伝えられたのだ。「なんとしても高画素のCCDを実現しなければならない」。背水の陣で臨んだ越智らは、苦心の末、25万画素のCCDを開発することに成功した。
そして1985年1月、ついに記念すべき8ミリビデオカメラ第1号機のCCD-V8は発表の日を迎えた。発表会のデモが始まると、「CCD搭載で画質が良い」ことで報道関係者たちの関心を呼び、大きな反響があった。発売は同月21日、価格は28万円だった。
こうして世に出た8ミリビデオ規格だが、巻き返しを図る日本ビクターが、VHS標準カセットの4分の1の大きさのVHS-Cカセットを開発、「VHS-Cカメラ一体型ビデオ」を発表すると、世界の家電メーカーに「VHS-C方式」の採用を呼びかけた。VHS-C陣営とのサイズや重量を巡る競争はさらに激しくなっていった。

第5節 大ヒット商品CCD-TR55の誕生

「カメラ本体は8ミリビデオカメラよりVHS-C方式のほうが小さいじゃないか」。8ミリビデオカメラが世に出てしばらくすると、社内でも販売店でも、そんな率直な意見が聞こえるようになった。8ミリビデオカメラは、さらなる小型軽量化を図る必要性に迫られていた。
この課題に対応すべく、1986年末には、森尾らを中心として「1988年8月8日8万円で発売」を目指した小型ビデオカメラの商品化計画「プロジェクト88」が発足。当時、すでに年間1,000万人が日本から海外旅行に出かける時代になっていたことから、若い世代の旅行者を購買層として照準を定めた。旅行バッグに入るように、小型化と並行してレンズやカメラなどの出っ張りをできるだけ少なくすることにもこだわった。デザインに始まり、設計の発想・手法、材料、製造に至るまで、すべての分野で新しいアイデアが導入され、全社の力を結集させて夢の8ミリビデオカメラは完成に近づいていった。
こうして1989年5月、録画・再生機として世界最小・最軽量を実現したCCD-TR55が発表された。重さはわずか790グラム。携行のしやすさが徹底的に追求された同機は、予想をはるかに上回る勢いで売れた。2日間で初回生産の5万台が売り切れ、3カ月間生産が追いつかない状態が続いたのである。すでにこの8ミリビデオカメラシリーズには、1985年に発売されたCCD-M8から「ハンディカム」というサブブランドも名付けられていた。そこにCCD-TR55の「パスポートサイズ」という分かりやすいCMも効果的に作用して、ユーザーの心を捉えた大ヒット商品となった。
このCCD-TR55は、通産省(当時)が選定するその年の「グッドデザイン(Gマーク)大賞」に、あらゆるジャンルの約4,000点の工業製品の中から選ばれた。デザインはもちろん、機能、品質、価格面から総合的に最も優れた商品と認められたのだ。大賞の受賞はソニーにとっても初めてのことだった。
家庭にビデオを浸透させるという夢は、こうしてベータマックス、VHS、8ミリビデオカメラという形で着実に果たされていった。カメラについてはソニー内製のイメージセンサーを使用することで、ソニーのカメラから、新たな映像体験の付加価値が創出できるようになった。内製デバイスの活用によって垂直統合型のビジネススキームが確立され、イメージング関連事業もエレクトロニクスの収益を支える規模に成長を遂げていったのである。この後、アナログからデジタルへ技術が進化していく中で、デジタルスチルカメラやスマートフォン、メディカル関連機器といったさまざまな分野にイメージング技術は応用されていった。