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第6章 理屈をこねる前にやってみよう <ウォークマン>

第1話 理屈をこねる前にやってみよう

ひたすら陽気だった「大曽根部隊」(右
側が大曽根)

 「小型のテープレコーダーに、再生だけでいいからステレオ回路を入れてくれないかな」という井深(当時名誉会長)の言葉に従い作り上げたからこそ、商品としての生命が吹き込まれたのである。企画書を提出して、試作を行ってという通常の手順を踏んでいたら、この商品は生まれなかったかもしれない。または、「デンスケ」シリーズのステレオデッキの小型版に、無難に落ち着いていたかもしれない。「取りあえず、理屈をこねる前に物を作って試してみよう」というのが、大曽根率いるテープレコーダー事業部のカルチャーであった。

 「はい、やります」。そう大曽根が答えた時から、テープレコーダー事業部の大車輪の日々が始まった。盛田(当時会長)のお陰で、目標ははっきりしすぎるほどはっきりしている。最初のうちは、「やっぱり、録音機能も付けたほうがよいのでは」という迷いが事業部にあった。しかし、再生専用・小型ヘッドホンステレオ、発売は夏休み前、という盛田の考えは変わらない。ヘッドホン部隊ともども、覚悟を決めた。

 「冷静に検討を重ねると、難しい問題はいくらでも出てくる。だから検討する前に、『えいやっ』と返事をしなくちゃ話は始まらないよ」と大曽根はいつも笑って言う。
 大曽根の部下の高篠静雄(たかしの しずお)たち開発メンバーは、1週間に2〜3日の徹夜は当たり前という日々を送っていたが、不思議なことに、彼らに追い詰められた悲壮感はなく、至る所でジョークが連発され、作業場に笑いが絶えなかった。

 この、いまだ世界中のどこにも見当たらない製品の第1号機を作り上げるにあたって、大曽根にはどうしてもこれだけは譲れないということがあった。
 「初めて世に出してコンセプトを問う1号機に、故障があっては絶対に駄目だ。故障が多いと、そのコンセプト自体が否定される」。大曽根は、それまでの種々の経験を通して、そう確信していた。

 それに今回は時間も限られていた。盛田も「金型は流用すればよい」と言った。そこで第1号機のメカには、すでに50万台の生産実績のあるカセットテープレコーダー「プレスマン」のメカをそのまま流用した。1号機が変わりばえしなくても、ある程度不格好でもよい、それは続くモデルで挽回できる。だが、故障しやすいというイメージを、1号機で植え付けたら終わりだ。1号機の役割は、何よりも、新しいコンセプトを世に問うことなのだから。

 この1号機開発には、技術的な苦労はほとんどなかった。既存の技術を組み合わせて、信頼性を最重視してまとめ上げることにすべての力が注がれた。

第2話 なぜ、録音機能がないの?

ロゴ自身も歩かせてしまった

 技術的な心配がなかった代わりに、「この商品コンセプトが果たして世に受け入れられるか、そのためにはどう売り込んでいったらよいか」ということのほうに、皆の意識が集中した。まず、名前を決めようと、知恵を絞ったのは、宣伝部の若手スタッフたちである。ああでもない、こうでもない、と議論しているうちに出てきたのが「ウォークマン」だ。当時スーパーマンが流行っていたのと、基となった機種がプレスマンだったことから若いスタッフが思い付いたのである。屋外へ持ち出して、歩きながら、動きながら楽しむというコンセプトにも合う。

 ところが、こんな変な和製英語はとんでもない、といきまく人も出てきて物議をかもした。しかし、盛田は、考えた人たちの意志を尊重した。「使うのは若い人だ。若い人たちがそれでいいと言うのだからいいじゃないか」。この言葉に勇気づけらた宣伝部の担当者たちは「もう今さら変えられない、英語でなければ、エスペラント語だと思ってください」と言って押し切ってしまった。実は、パッケージもポスターもすべて、「ウォークマン」で準備を進めていたのである。何しろ時間がない。

 盛田も、自ら試作機を自宅に持ち帰って使ってみては、「2人で仲良く聴けるようにジャックを2つにしたらどうか、ヘッドホンをしていても会話ができるように“トーク・ボタン”なるものを付けたらどうか」とアイデアを積極的に伝えてきた。
 黒木靖夫(くろき やすお)率いるPPセンター(現クリエイティブセンター)のメンバーが、こうしたアイデアを採り入れながら事業部と協力して、装飾は取り除き、機能美あふれるデザインにまとめ上げていった。

 しかし、発売前からこの「ウォークマン」には、否定的、悲観的な意見が大半を占めていた。「再生専用機なんて聞いたことがない。録音機能が付いていないと絶対に売れませんよ」。そう口々に言われて、盛田は思わず「自分のクビをかけてもやる決意だ」とまで言ってしまった。
 盛田も「絶対売れる」とはさすがに言えなかった。ただ自分の嗅覚とひらめきは信じていた。自分の子供たちが、家に帰ってきてまず真っ先にすることといえば、部屋のステレオのスイッチを入れることだ。「若者と音楽のつながりを増すこのウォークマンは、きっと売れる」

 「こんなのを作ってくれ」とアイデアを出したのは、70歳を過ぎた井深で、「これはいけるぞ」と商品化に熱中したのは60歳に近い盛田である。
 彼らは、自分の年齢にも、過去の経過や成功にも捉われることがなかった。絶えず好奇心に満ちあふれ、若者の生活にアンテナを張り、新しい商品提案を支持する感性と、何よりも熱意を持ち続けていた。

 販売部門の担当者が、特約店に「今度、こんなものを出します」と説明しに行くと、「何で録音機能がないの? どうやって使うの?」と納得のいかぬ顔ばかりだった。不安を抱える彼らや技術者たちを支えたのは、井深や盛田の熱意であり、ウォークマンの製造ラインにいる若い女性たちの「私たちも、これ欲しいな」というつぶやきであった。

 盛田の号令で、最初の生産台数は3万台に設定された。当時一番売れたテープレコーダーでも、ひと月に1万5000台であったから思い切った数である。とにかく、不安を抱えながらも開発、生産、発表準備が進み、いよいよ6月22日、発表の日を迎えた。発売も7月1日と決まった。当初の目標よりわずかに10 日遅れただけだった。夏休みはもう目の前である。

第3話 「ちょっと聴いてみてください」

プレス発表の日、記者たちの前でデモ
ンストレーション

 発表する製品が、これまでにない斬新なものなら、広告・宣伝、そしてマスコミへの発表の方法もこれまた斬新なものであった。「新しいコンセプトをこれから広めなくてはいけない。とにかく、これは音楽を外へ連れ出して楽しむためのものだ。発表の時、実際にサイクリングやローラースケートをしながら聴くデモンストレーションをやってみせれば、コンセプトを理解してもらえるだろう。たまには記者さんたちを外に連れ出すのも面白いんじゃないか」と宣伝、広報のスタッフの間で話が決まった。

 1979年6月22日。ソニーから「新製品の発表がある」という通知を受けた雑誌記者たちは、東京・銀座のソニービルに集まった。ビルの前にはバスが用意され、バスの中で、彼らの手にヘッドホンの付いた小さなカセットテープレコーダーのような「新製品」そのものが渡された。代々木公園に到着すると、ソニー側からの挨拶の後、「お渡しした機械の再生ボタンを押してください」というアナウンスがあった。ヘッドホンからは、音楽とともに新製品「ウォークマン」の商品説明がステレオで流れた。

 ヘッドホンの音に集中するマスコミの人たちの前では、「ウォークマン」とプリントされたお揃いのTシャツを着た宣伝部のスタッフやアルバイトの男女学生が、ウォークマンを思い思いに楽しむデモンストレーションを続ける。

 ヘッドホンから声が流れる。「ご覧ください。若い2人はタンデム(2人乗り自転車)に乗ってウォークマンを楽しんでいます」。記者の目の前を、ウォークマンを付けた男女の若者がタンデムに乗って楽しそうに走り抜けて行く。

 記者たちは、新製品の概要を知ると同時に、実際にヘッドホンから流れる音を聴き、目でも確かめていた。“ウォークマン”「TPS-L2」。ヘッドホン再生専用、手のひらサイズのステレオカセットプレーヤーで価格は3万3000円。いつでも、どこでも、自分の好きな音楽を、ステレオで好きなだけ楽しめるという。

 ヘッドホンを外してみれば、何のアナウンスも聞こえない静かな発表会だった。記者たちは、この変わった新製品発表会の「意外性」に、驚きの表情を見せていた。

 しかし、マスコミ紙面の反応は冷ややかだった。新聞はほとんど無視、載せても本当に申し訳程度の記事である。7月1日に予定どおり発売したものの、7月が終わってみると、売れたのはたったの3000台程度だった。「やはり、駄目なのか……」

 それでも宣伝部や国内営業部隊のスタッフたちは、ウォークマンを付けてJR山手線の電車に乗り込み1日中ぐるぐる回り、ウォークマンを人々の目に触れさせる作戦を始めた。また、「この商品は、まず聴いてもらって良さを分かってもらわないと、話が始まらない」という声も挙がり、大曽根部隊では4月に入社してきたばかりの若い社員にも声をかけ、日曜日になると新宿や銀座の歩行者天国へ繰り出した。そして、ウォークマンを付けて歩き、通りがかった人にヘッドホンを差し出し、「ちょっと聴いてみませんか? 聴いてみてください!」とやってみたのだ。若者があふれる高校、大学の運動会や文化祭にもよく出向いた。最初は不思議そうな顔をしても、ヘッドホンを付けて試聴すると、若者の顔は、ぱっと驚きの表情に変わる。営業側でも、特約店の方に、デモテープを入れたウォークマンを付けて店内を歩き回ってもらい、やはり「ちょっと聴いてみてください」とお客さまに働きかけてもらった。試聴してもらうと同時に、当時大きくて、重かったヘッドホンへの抵抗をなくしてもらう努力が続いた。

 また、こうした草の根の働きかけを進める一方、影響力のありそうな有名人たちに「使ってみてください」とウォークマンを渡し、働きかけもした。やがて、数人の当時のアイドル歌手たちが気に入り、使う姿が雑誌にも取り上げられるようになり、若者の間の憧れを高めるのに一役買った。

 大々的なテレビCMを展開することはなかったが、こうした工夫をこらした広告・宣伝活動は見事に当たり、評判は口コミで広がっていった。初回生産の3万台は8月いっぱいで売り切れ、今度は生産が追いつかなくなってしまい、品切れ店続出という状態が6ヵ月間も続いた。「こんな録音機能のないものは……」と否定的だったのが嘘のように、「早くくれ、早く」とあちらこちらから嵐のような注文が来る。初期のウォークマン購入者は20歳代半ばを中心とするオーディオファンたちだったが、やがて驚くべきスピードで若者の間に浸透し、新しい音楽を楽しむスタイルが育っていった。

 こうなるのを早くから、もしかすると盛田以上に見抜いていたかもしれない人たちがいた。それは、デパートの「丸井」の若い購買担当者たちだ。彼らは、ウォークマンが、秋葉原辺りの量販店、特約店、ひいてはソニーの営業サイドにさえ、半ばそっぽを向かれていた頃、「これは絶対に売れるよ」と言い切り、1 万台の注文を出していた。丸井では若い担当者たちに責任と権限が与えられていた。彼らは、若い感性で「絶対いける」と確信を持っていたのである。

第4話 「ミスター・モリタ、『ウォークマン』が欲しい」

“ウォークマン”1号機
「TPS-L2」

 ウォークマンを世界中に広げるため、国内から半年遅れで海外でも売り出すことになり、宣伝準備を進めていた。ところが、ここで「ウォークマン」は「ウォークマン」でなくなってしまったのである。

 一部の人が最初に懸念していたとおり、海外の販売会社が口々に「ウォークマン」は英語ではない、こんなネーミングは使いたくないと言い出したのである。そして、ソニー・アメリカ、ソニー・UK(イギリス)などが、次々に思い思いの名前を付け出したのだ。アメリカでは「サウンドアバウト」、イギリスでは「ストウアウェイ」(密航者という意味)、オーストラリアでは「フリースタイル」。その結果、世界には、「ウォークマン」の他に3つの異なった名前が誕生した。

 ところが、盛田がヨーロッパに行くと、仕事などで会う人がメモを見せてこう言うのである。
 「ミスター・モリタに会うと言ったら、息子から『ウォークマンがどうしても欲しい。何とか手に入れる方法を聞いてくれ』と頼まれた。ウォークマンとは何のことかよく分からないんだけどね」。イギリスでもフランスでも言われた。どうやら日本で人気となったウォークマンを、来日した外国人やスチュワーデスたちがお土産に買っていくようになり、この「ウォークマン」の名前が先に知れ渡っていたのだ。特に、英語圏ではない国の人にはかえって分かりやすいらしく、普及しやすかったようだ。盛田は考え込んだ。そして日本にいる大曽根に電話をした。

 「海外でも『ウォークマン』という名前で通っている。こうなれば、世界中全部『ウォークマン』に統一してしまおう」。そもそもウォークマンは市場の声に応えて企画したものではない。名前が少しくらい妙でも、自分たちが最初に作ったもので売り込んでしまおう、ということで、会長直々の通達が世界中を駆け巡った。「今後、世界中すべて『ウォークマン』いう名前に統一せよ」

 多少、各地域で抵抗はあったものの、のちにこの判断の正しさが証明された。この和製英語「ウォークマン」は、ヘッドホンステレオの総称と誤解されるほど定着し、海外の権威ある辞書に載るまでになった。1981年にはフランスの辞書『プチ・ラ・ルース』に、1986年にはイギリスの代表的な辞書である『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』に掲載された。さらに日本でも、『広辞苑』に掲載されるようになった。盛田は、「ウォークマン」という言葉が英語として認められるほどに商品が世の中に定着したという事実に、この上ない喜びを覚えた。
 ウォークマンは、1冊で9ヵ国語に対応した取扱説明書をお供に、世界に広がっていった。

 ウォークマンは、その後ヘッドホンステレオ市場という新たなマーケットを創り出し、「世界中で愛されるウォークマン」となった。その生産台数は、第1号機発売から10年(1989年6月)で累計5000万台を突破、13年間で累計1億台を達成した。「15周年記念モデル」が出るまでに、実に300機種以上のモデルを送り出し、ヘッドホンステレオ市場において、トップの座を譲ることはほとんどなかった。
 そして、1995年度には、ついに生産累計1億5000万台に達した。