第7章
音のデジタル化への挑戦
第1節 デジタルオーディオの黎明期
1971年、かねてNHKで音のデジタル化に取り組んでいた中島平太郎が、ソニーに入社した。中島は設立されたばかりの技術研究所の所長になってしばらくすると、開発チームを組成し、デジタルオーディオの開発を始めた。1974年には大型冷蔵庫並みの大きさを持つ、デジタル録音機第一号X-12DTCが完成した。ソニーのデジタルオーディオの歴史の幕開けとなる、記念すべき第一号機の誕生であった。
中島はより小型で安価な商品を追究し、一つの可能性にたどり着いた。それは、当時発売されたばかりの家庭用VTR「ベータマックス」が大いに活用できるのではないかという仮説だ。情報量の多い映像を記録・再生するビデオ機器の周波数帯域は、アナログオーディオの約200倍〜300倍以上。それならば、折しも1975年に発売されていた「ベータマックス」にデジタルオーディオを記録・再生させるための回路さえ設ければ、情報量の多いデジタルオーディオも十分録音でき、価格も抑えることができるはずと考えた。
そして出来上がったのが、VTRとPCM(Pulse Code Modulation)の2つが1組となったPCMオーディオユニットPCM-1。1977年9月、本機はデジタル録音・再生が行える世界初の商品として発売された。
マーケットからは「とにかくクリアな音だ」というお褒めの声と同時に、それを上回るような苦情が寄せられた。ダイナミックレンジ(最も強い音と弱い音の比)が広くなれば、それなりに防音の設備の整った静かな部屋でないと、周囲のノイズも拾ってしまう。商品開発の現場と実際に使われる現場との環境の違いを、十分に想定しきれていなかった。中島らはこれらの指摘を謙虚に受け止め、次のシステムの開発のための教訓とした。
一方で、思いがけずうれしい出来事もあった。家庭用と同時に開発を進めていた業務用のPCMプロセッサーの試作機を称賛した人の中に、世界的な指揮者のカラヤン(ヘルベルト・フォン・カラヤン)氏がいたのだ。1978年9月、来日したカラヤン氏は、自らの練習中にPCM録音機で録音されたデジタル音源を聴き、「新しい音だ」といたく感激した。カラヤン氏にお墨付きをもらったことで、技術者たちは大いに勇気づけられたという。

PCMオーディオユニット PCM-1(1977年)

ザルツブルクのDAD試聴会(手前左からカラヤン氏、盛田、大賀)
第2節 PCM-1で得た経験をデジタルオーディオに生かす
PCM-1開発のごく初期から、光ディスクを使ってデジタルオーディオを録音・再生してみようという取り組みも社内で始まっていた。
1976年頃、ソニーでは家庭用VTRベータマックスの商品化と同時に、フィリップス社が世界に先駆けて開発した光方式のビデオ・ディスク(レーザーディスク)の商品化に取り組んでいた。光技術にソニーの将来を見込んでいた岩間和夫からの後押しもあって、光記録によるビデオ・ディスクの開発チームが結成された。
その春、土井利忠らはPCM-1の試作機を、このビデオ・ディスクの開発チームの中に持ち込んで、一枚のディスクをカッティングしてもらった。土井は、ビデオ・ディスクに何の変更も加えずにPCM-1を接続して、デジタルオーディオ・ディスクに変身させようとしていた。技術的には十分実現可能なはずだった。
しかし、その目算は外れた。きれいな音楽どころか、すさまじい雑音の中、音楽が途切れ途切れに再生されるというありさまだったのだ。原因は、ごみの付着などによる信号の欠落(ドロップアウト)だ。試行錯誤の後に見出した対策は、数学上の理論を基にした誤り訂正符号の技術を導入・実用化することだった。当時、工業上の前例がなかった誤り訂正符号を独自に実用化するという方針は大胆なものだったが、この決断が後のCDの規格開発に直結するブレイクスルーとなった。
COLUMN
ソニーのDNA
デジタルオーディオに
革命をもたらした誤り訂正符号技術
デジタルオーディオ・ディスクの内部の信号記録面には、音楽信号が1と0の数値の組み合わせであるデジタル信号に変換されて、凹凸(ピット)の配列で記録されている。再生する時は、光を当てて、このピットの有無によって生じる光の強弱を読み取り、電気信号に変換する仕組みだ。誤り訂正とは、電気信号に変換する際、ピットの有無を読み違えた時に、機械自身が前後の様子から自分で考えて訂正する機能である。ディスクは、もともとエラーの頻度がテープに比べて一桁多く、誤り訂正機能は特に大切だった。PCM-1 での試行を経て、土井はコンピュータの専門家たちに、誤り訂正符号のコンピュータ・シミュレーション・システムの構築も命じた。このことが、ソニーがデジタルオーディオで圧倒的な開発力を誇る大きな要因となった。
第3節 フィリップス社との共同開発
開発現場が試行錯誤している最中の1978年6月。大賀典雄はフィリップス社を訪れ、その場で直径11.5センチかつ1時間の音楽を収録可能なオーディオ専用ディスク「オーディオ・ロング・プレイ」(ALP)のデモを見て、「レコードに代わるものはこれだ」と直感し、大賀は、彼らと一緒なら良いものが作れると確信した。フィリップス社は、当時、光学方式のビデオディスクのリーダー的存在だった。そしてデジタルオーディオ信号処理技術を開発したのは、他でもないソニーである。この2社が手を組めば、理想的なメディアができるに違いなかった。さらに、両社には自前のレコード会社があり、音楽ソフトの供給体制も盤石であった。
その後、何度かフィリップス社とソニーの幹部がお互いに行き来して、正式にフィリップス社との共同開発の方針が固まった。両社でデジタルオーディオ・ディスクの規格をまとめて、業界各社が集まる1980年6月の懇談会に提案しようということになった。
共同開発が始まると、両社間で意見の相違が出てきた。量子化ビット数について、フィリップスは実現が容易な14ビットを主張したが、ソニーは技術的に難易度は高いが広いダイナミックレンジが得られる16ビットを主張。最終的に16ビットに決着した。他にも記録時間とディスクサイズでも意見の隔たりがあった。フィリップスはコンパクトカセットの対角線の長さと同じ直径11.5センチ、記録時間60分を提案したが、ソニー側は大賀が「オペラの幕が途中で切れてはだめだ」と主張。クラシック音楽は75分あれば、95%以上の曲を収録することができる。逆算すると、この演奏時間を実現するためには直径12センチは必要だ。こうして新規格の全体像が固まっていった。
最終的に、最大演奏時間75分直径12cm、周波数44.1キロヘルツ、16ビットと、ソニーの提案が通った。こうして決まった方式は「コンパクトディスク・デジタルオーディオシステム(通称CDシステム)」と命名され、やがて業界のデファクトスタンダードとして確立されていった。

フィリップス社とソニーの両社開発メンバー

世界初のコンパクトディスクプレーヤー CDP-101(1982年)
第4節 CDプレーヤー1号機CDP-101誕生
懇談会への提案と並行して、開発陣は直ちにCDシステム第1号機の商品化にとりかかった。大賀からは1982年10月という発売時期が示されたが、これは時間的にかなり厳しいものだった。実際のハードウェアに使うキーデバイスには改善点が多く、規格に沿って商品レベルまで完成度を高めるには、まだ多くの時間を要したからだ。
光学ピックアップ、レンズ、半導体など満足いくものは一つとしてない。問題点を洗い出したら200項目にもなり、2年間で解決するにはあまりに膨大な量だった。これらの難題には、技術研究所の中島、宮岡らに加え、音響事業本部内の鶴島克明ら技術部、出井伸之が事業部長を務めるオーディオ事業部のメンバーが従事することとなった。
それでも各分野の協力を得て多くの技術的困難を克服し、1981年には試作機が出来上がった。秋のオーディオフェアにはさらにサイズダウンした試作機が参考出展された。
しかし、ハードがあってもソフトがなくては使いものにならない。大賀はCBS・ソニーレコードにCDのソフトウェアを量産できるよう、拠点を整備するよう指示した。侃侃諤諤の交渉の後、静岡の大井川のほとりにある工場に、世界初のクリーンルーム付CDソフト生産設備ができあがった。稼働は1982年4月から始まったが、新素材「ポリカーボネート」を使ったディスクで商品化をする決定をしたのは8月、プレス生産が軌道に乗ったのは9月半ばと、10月の発売直前まで調整が行われた。
こうして1982年10月1日、ソニーは異例のスピードで第一号機CDP-101の発売に至った。定価は16万8,000円。CDP-101の発売と同時に、CBS・ソニーからは世界初のCDソフト50タイトルが発売された。記念すべきCDタイトルの第1号はビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」だった。50タイトルの内訳はクラシックだけでなく、ポップスやロック、歌謡曲まで揃えた。より幅広いオーディオ・ファンたちにもマーケットを拡大しようという思いの現れである。以降もCDタイトルのリリースが続き、年末までに100余りのタイトルが発売された。その後CBS・ソニーもCDのタイトル拡充に努め、1984年には当時すでに引退していた人気アイドル・山口百恵のヒット全曲集を発売してベストセラーとなった。ジャズ名盤の復刻ブームにも乗って、マイルス・デイビスシリーズ、パブロ・レーベル、プレスティッジ、リバーサイド、さらに後からブルーノートなどを続々と発売して、クラシックファン以外にも顧客層を獲得していくことになる。
こうしてCDは世に送り出された。一連の取り組みは、後の「プレイステーション」など、技術とコンテンツの両輪で市場を切り拓いて「ソフトとハードの融合」を目指す戦略の嚆矢となった。「CDほど、ソニーグループ全部の持てる力をうまく使った例はないだろう」。後に大賀がそう語るほどの成果が、ここに結実したのだ。
第5節 ポータブルCDプレーヤー発売でより手軽な音楽体験を
CDが着実に需要を伸ばしていく一方で、当初の主な顧客層はオーディオ・マニアに限定されていた。もっと手軽にさまざまなお客様にCDを楽しんでいただきたい。そのために必要なのは、より小さくて安価なCDプレーヤーだった。
当時主に小型のオーディオ機器を担当していたゼネラルオーディオ事業部の責任者だった大曽根幸三は、ここで一石を投じた。「これでCDプレーヤーをやってみてくれ」。部下に示したのは、13.4cm四方の正方形で厚さが約4cm、CDケース4枚分の木型である。「中にバッタを入れようがセミを入れようが構わない。とにかく音を出してくれ」。
大曽根の示す目標は日頃から厳しかったが、伝える際のユーモアを忘れなかった。また、「これくらいか」と手にとって確かめられるよう、目標設定に木型を使うのは大曽根流である。これには、「持ち合わせの技術ありきで考えるのではなく、皆が喜んで使う大きさを絶対の目標として示す」という意図もあった。また、価格に関しては、CDの本格普及を目指そうとする盛田が、「5万円を切る価格でいこう。最初は赤字でも、きっと後で利益が出るはずだ」と、方針を出した。こうしてCD発売二周年の1984年11月にD-50は発売された。49,800円という画期的な価格のみならず、CDケース4枚分のサイズながら、CDP-101と変わらないという機能性が受け、爆発的なヒットを記録した。
D-50の登場によって音楽タイトルもさらに売り出され、業界全体のCDビジネスも本格的に立ち上がった。同機が発売された1984年末頃、CDの生産枚数はアナログレコードの10分の1程度だったが、2年後の1986年には早くも逆転。1988年前後にはアナログレコードの最盛期に相当する1億枚を超え、1992年には3億枚に達した。
CDプレーヤーの小型化も加速し、ポータブルタイプのCDプレーヤーは、ウォークマンのように歩きながら音楽を楽しめるという位置付けで、「ディスクマン(のちにCDウォークマンに統一)」と総称され、広く親しまれていくことになる。また、ソニーグループのCDソフト生産拠点の拡充も、普及を早めた。1987年までに、日・米・欧における、年間1億2,000万枚のCDソフト生産体制を確立し、CDのハードウェア・ソフトウェアにおける全世界的な供給体制を、いち早く構築していった。
そしてCDビジネスは、LSIや、半導体レーザーを組み込んだ光学ピックアップなど、キーデバイスの外販という方向にも拡大していった。「デバイスの外販も含め世界のCDプレーヤー市場の50%のシェアをとろう」という方針が大賀の下で推し進められ、最高時には70%にまで達した。1984年に外販を開始した光学ピックアップに関していえば、10年間で外販累計1億セットを達成、ソニー社内で使っているものと合わせて累計2億台、全世界のCDプレーヤーの約半数に搭載されるようになったのだ。

D-50のサイズ目標となった大曽根のサイン入り木型

世界初のポータブルCDプレーヤー D-50(1984年)

ポータブルCDプレーヤー D-50発表会の盛田
第6節 MDの誕生
アナログレコードに代わる再生専用メディアとしてCDが爆発的に普及していく一方、1990年代に入ると、長年親しまれていた記録メディアであるコンパクト・カセットの売り上げが頭打ちになっていった。「カセットに代わる、次世代の記録可能な音楽メディアも、ディスクでつくりたい」。大賀がそんな思いを胸に抱くようになったある日、オーディオ技術部の鶴島らが手がけた「CDの録音機」なるものが目に留まった。それを見た大賀は鶴島に「CDの録音機でなく、もっと小さなディスクを使って、記録・再生できるコンパクト・カセットに代わるものを作るべきだ」と指示し、1990年、新しい音楽メディアの開発が始まった。
鶴島の下、CD開発に関わったメンバーが集められた。光磁気記録技術を生かして、さらに小型化を進めて光磁気ディスクへの音声記録を可能にしていく。大きさは直径6.4センチと決まった。CDと同じ75分の音声を、今度はその約半分の大きさ、面積にして約4分の1のディスクに記録しなければならない。そこで、最新デジタル信号処理技術である「ATRAC」という新しい音声圧縮技術が、情報処理研究所の協力を得て開発された。また、持ち歩く際の振動の音飛びを抑える技術開発も同時進行で行い、半導体メモリーを使った「ショックプルーフメモリー」という新技術が開発された。
1991年5月。ついにすべての開発が終わり、新しいオーディオ規格として「ミニ・ディスク(MD)」が発表された。カセットのように録音できて、CDのように高音質で瞬時に頭出しができる。持って歩くのに便利なように、ディスクはカートリッジの中に収められている。ショックプルーフメモリーによって、持ち運び時のプレーヤーの振動対策も完璧だ。CDは落ち着いて音楽を楽しむときに、MDはいつでもどこでも手軽に楽しむときに、と使用シーンを明確に分けた。大賀のリーダーシップの下、ソニーは日米欧で積極的に宣伝を行い、有力なハード、ソフトメーカーと次々とライセンス契約を結んでMDファミリーを増やしていった。
MDの商品化を託されたのは、小型化の得意な高篠静雄らのゼネラルオーディオ事業本部だ。6センチほどの小さなディスクの録再機という課題が、ウォークマンやD-50に関わった精鋭14名に下りてきたのは、1991年末のことだった。発売目標は、1992年11月。フィリップス社などの「デジタル・コンパクト・カセット」(DCC)と同じタイミングで全世界同時発売をねらった計画で、猶予は1年しかなかった。
一方、ハードウェアの発売日に向けて、MD音楽ソフト、そして録音用のメディアも併せて準備が進んだ。既に日・米・欧の3極で稼働していたCDソフト生産工場に、設備を増強することで効率化を図った。国内では、ソニー・ミュージックエンタテインメントが中心となり、MDプロジェクトを進めた。海外では、ソニー・アメリカ社長でソニー・ミュージックエンタテインメント会長のシュルホフが、レコード会社を口説いて回っていた。1992年8月には日本で、秋には海外工場でも生産を開始し、録音用MDも仙台での生産が始まった。
1992年11月、欧米に先駆けて、録再用のMZ-1、再生専用のMZ-2P、録音用MDのMDW-60の3機種が、日本のソニー・ミュージックエンタテインメント制作のMDソフト88タイトルと共に店頭に並んだ。続く12月以降、海外でもハードウェア・ソフトウェア共に順次発売が拡大。1995年には、業界全体でMDのハードウェアの国内販売台数はついに100万台の大台に乗った。
1982年に登場したCD、そして、1992年のMD。CDの登場からちょうど10年後、ソニーはまたしても音楽メディアに新風を吹き込んだ。デジタルオーディオの可能性はさらに広がり、より手軽に楽しめるようになったのだ。

ミニディスクソフト発表会のSMEJ社長の松尾

ミニディスクレコーダー 1号機 MZ-1(1992年)